美濃 の 国。 美濃国(みののくに)とは

「美濃一国譲り状」斎藤道三が信長に託した古文書を解読

美濃 の 国

本丸御殿跡 6年()に侵攻のための命令で近辺の14諸将の協力を得て猶子のが築城し、烏峰城と名付けられた。 しかし正義は天文17年()に近隣の主に久々利城へ招待された際に討たれ、城主が一時不在となった。 その後がを領地としたことにともない、8年()に家臣のが城主となり 兼山城と改称した。 元年()にで可成が戦死し、その直前に長男のもで討ち死にしたため、次男のが跡を継ぎ城主となった。 10年()長可がに転封されると弟のが入るが成利は同年中ににより討死し、また長可も情勢不安の川中島を捨てて戻って来たため、再び長可の領地となる。 12年()に長可がで戦死すると、可成の六男のが城主となる。 5年()に森氏がに転封されると城はの所有となり、建物は解体され石川氏の居城であるの改修に使われたという。 兼山城の天守が犬山城の天守として移築されたという伝承があったが、36年()の犬山城天守の解体修理の際の調査の結果、移築の痕跡がまったく発見されなかったため、移築説は現在は否定されている。 18年()可児市が約5年かけて兼山城の発掘調査を行った。 当時の茶碗や瓦等の多くの遺物が出土した。 平成29年()4月6日、(143番)に選定された。 遺構 [ ] 遺構には、、、、などの一部が残り、本丸には石碑が建てられている。 城の建造物は5年()に解体され、麓のからを通じて犬山まで運び犬山城の改修工事に利用されてしまったが、犬山市のに二の門が、可児市兼山に裏城戸門が移築現存している。 お堂は鳥竜神社の拝殿 本丸(天守台) [ ] 古城山の山頂部に位置し、兼山城の中枢となっていた。 周囲は土塀に囲まれ、北側に天守を設け、隣接して南東側に小天守、さらに小天守の南西側に袖櫓が隣接していた。 そして、中央部に本丸御殿、南西側に西南隅櫓を設けていた。 天守と本丸御殿の間に建物の礎石が見つかっているが、詳細は不明である。 現在は鳥竜神社となり、本丸の北西側には石碑が建てられている。 天守 本丸の北隅に存在した2重2階層塔型の櫓。 天守と小天守の複合式で、南東側で小天守と隣接していた。 の天守とほぼ同時期に造られたとみられている。 なお、かつては金山城のが犬山城に移築されたとの説があったが、そのような痕跡はないことが近年の調査でわかった。 穴蔵東出口跡 袖櫓(そでやぐら) 本丸の南側に存在した建物。 小天守と東側で隣接して、建物の北西側に出入り口が設けられていた。 現在は礎石が残るのみである。 本丸御殿 本丸の中央部に存在した建物で城主の居館として使用された。 本丸御殿跡からは茶碗などの食器が出土している。 規模は東西約11m、南北約12. 7mで面積約138. 6m 2。 2棟の建物があり、南棟の南側には廊下が存在した。 礎石の一部が現存する。 28年()に鳥竜神社再建の際に整地のために礎石を石材として転用して一部の原型を崩されてしまい、詳しい構図はよく分かっていない。 西南隅櫓(坤櫓) 本丸の南西隅に存在した二層の隅櫓。 規模は南北約9m、東西約8m。 6個の礎石が現存するのみである。 隅櫓跡から古瓦片などが出土している。 大手枡形 二の丸から本丸へ登る途中にある門や土塀に囲まれた空間。 南側正面に大手門、大手門を過ぎて右手の石段「3段」の上に二の門が設けられていた。 規模は南北約9m、東西約12m。 普段は武士達への威厳を示す場所であり、ここまで来た武士は呼吸を整えながら、本丸へ登るために衣紋の乱れなどを直していた。 大手門 大手枡形の南側に存在した門。 通称:追手門、一の門、表門。 門の両脇に潜り門とし、更に両脇に袖塀をつけていた。 5年()に犬山城へ移築されて内田御門に使用された。 その後、同市にある瑞泉寺に移築された。 江戸時代後期に老朽化のため新造されて現在に至る。 その門の土台の間隔は兼山城大手門の礎石の寸法と一致したという。 西腰曲輪 三の丸の北東側に位置している郭。 規模は約265㎡で三の丸見張櫓の石垣の残石などが散乱している。 三の丸見張櫓との間に水手門が存在した。 水手門 水手門は西腰曲輪と三の丸見張櫓の間に存在した門。 通称:水の手門。 水の手へ向かう入口の役割を果たしていた。 東腰曲輪 [ ] 本丸の東隣に位置している郭。 北側には東西約10m、高さ約3mの石垣を構築し、石積手法は野面積で出丸の石垣とともに城内で最も古いといわれている。 面積は東西約21mの330m 2で天守台の石垣の隣に天水井戸が設けられていた。 天水井戸 東腰曲輪の西側に存在した井戸。 山頂にあることから雨水を貯めていた井戸と考えられている。 終戦前まで完全に現存していたが、戦後に何者かによって破壊されてしまった。 規模は深さ約1. 4m、幅1. 5m、長さ約2. 5mあった。 北方物見櫓跡 北方物見櫓 兼山城の北端にある北方物見台に存在した二重の櫓。 北方物見櫓は質素で簡単な造りであった。 北方物見台は二段に分かれており、上段に櫓を設け下段に敵を遮断するための高塀を廻らせていた。 規模は上段と下段を合わせて東西約14m、南北約10m。 本丸のすぐ北側の下にあり、かつては本丸と大手枡形への連絡通路が存在した。 現在は西腰曲輪からの連絡通路しか残っていない。 左近屋敷 古城山の中腹に存在した居館。 森氏の家老であった細野左近の館で、南東側で物見台と隣接している。 屋敷は削平にした東西約14m、南北約15mの台地上の東端に存在した。 屋敷の門の礎石と、建物の礎石が現存している。 南東方物見櫓 左近屋敷の南側にある物見台に存在した櫓。 約6m四方の台地上に置かれた。 水の手 水の手は兼山城の北西側に存在した湧水。 水手門の先にある水の手道とよばれる道を通って城兵はここまで飲料水を汲みに来たという。 東腰曲輪にも天水井戸があったが、飲料用ではないので、城中生活の飲料水はここに依存していた。 現地情報 [ ] 所在地 [ ]• (旧)兼山字古城 交通アクセス(登城口) [ ] 鉄道• より北へ徒歩約55分• より北へ徒歩約1時間• より東へ徒歩約1時間 路線バス• 城戸坂バス停下車 北へ徒歩約3分 自動車道• から車で約30分。 から車で約10分。 『下渡橋南交差点』を南側に曲がり、兼山小学校手前に駐車場。 脚注 [ ] [].

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関城 (美濃国)

美濃 の 国

美濃国府 16.美濃国 岐阜県不破郡垂井町府中 JR東海道本線垂井駅 '98. 28 2002. 05 2002. 19 美濃国 「美濃国府」(タルイピアセンター)より 美濃国府趾 美濃国の国府は、現在の岐阜県不破郡垂井町の府中におかれた。 府中にある 安立寺 あんりゅうじ が、かって府中寺と呼ばれていたこと、また境内から古瓦が出土することから、安立寺付近に国府があったとされてきた。 美濃国府廰趾と 記された安立寺の碑。 安立寺本堂 美濃の国府が、発掘された。 平成3年から9次にわたる発掘調査の結果、安立寺から100メートルほど南の 南宮 御旅神社 の境内から正殿跡が確認され、さらに、その南側から東西の脇殿跡と見られ る遺構が見つかった。 (2002. 05 10. 19取材) 正殿跡とされる御旅神社の境内 出土した須恵器 駿河麿の墨書が見える。 南から御旅神社を望む。 道路の左から東脇殿が発見された。 東脇殿が検出された場所。 ここから正殿が発見された。 御旅神社境内 御旅神社の南に広がる美濃国庁の発掘現場 第1次(1991)〜第9次(1999) 第3次調査で正殿を検出した。 美濃国府之宮(南宮御旅神社) 美濃国府が発掘された南宮御旅神社は、昔、 国府之宮とも呼ばれていた。 ここに国府 がねむっていることを、神社名によって後世に伝えようとしたのだろうか。 国府之宮と呼ばれたこの神社は、いわゆる美濃の総社に当たるのだろう。 総社には祭りの日に、その国の有力な神社の神輿が、御幸する。 美濃一之宮南宮神社の神輿は、相川を禊ぎ川渡りしてこの宮に到るので、後年、南宮神社の神輿のお旅所のような形になったものだろう。 総社の変遷の一例として興味深い。 境内は東西に長く、奥に本殿がある。 祭神は南宮大神の姉神の 金山姫命。 併せて豊玉姫命、埴山姫命を祀る。 御旅神社拝殿 掲額 美濃国分寺跡 南宮神社から北へ向かい、中山道を横切り県道216号線を東へ少し行くと 左手に美濃国分寺という大きな道標が見える。 美濃国分寺跡 東西231m、南北203m。 全国の国分寺の中でも最大級だ。 築地塀から金堂、塔などの礎石が、 ほぼ完全に近い形で保存されている。 七重の塔の礎石。 向こうに見えるのは金堂趾の基壇。 美濃国分寺復元模型 七重の塔をもつ堂々たる大伽藍である。 類聚符宣抄という古文書によると、寛弘元年(1004)閏9月、美濃国分寺の 破損状態を実験のため、官吏、木工、算師などを派遣したとの記事がある。 当時の中央政界は 藤原道長の時代であり、美濃国司は渡辺綱や坂田金時 などの四天王を擁した 源頼光であった。 台風でかなりの被害を出したのだろ うか。 道長や頼光がなんとなく身近に感じられる。 美濃国分寺復元模型 東に塔、西に金堂を配し、中門と講堂を回廊で結ぶ 逆法隆寺式(法起寺式)で、国分寺としては珍しい。 配置図は「飛鳥の寺と国分寺」 坪井清足著より 現国分寺 国分寺趾の北にある。 高野山準別格本山。 真言宗のお寺である。 地蔵像 たくさんの地蔵像が奉納されていた。 南宮神社 (美濃一之宮) 美濃一之宮南宮神社、御旅神社を出て御幸通を南に向かい 相川を渡り、東へしばらく行くと、これは立派なたたずまい。 美濃国一之宮 豪壮な楼門 主祭神は 金山彦命。 古くは仲山金山彦神社と呼ばれたが、美濃国府の南に位置するところから南宮神社と称するようになった。 この宮の宮司の 宮勝木実 みやすぐりのこのみ が壬申の乱で天武天皇に味方し、不破関を守ったので破格の待遇を得たという。 延喜式で国幣大社に列している。 高舞殿と拝殿 美濃国地図.

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美濃国ってどこのこと? 『麒麟がくる』を楽しめるトリセツが公開

美濃 の 国

美濃国府 16.美濃国 岐阜県不破郡垂井町府中 JR東海道本線垂井駅 '98. 28 2002. 05 2002. 19 美濃国 「美濃国府」(タルイピアセンター)より 美濃国府趾 美濃国の国府は、現在の岐阜県不破郡垂井町の府中におかれた。 府中にある 安立寺 あんりゅうじ が、かって府中寺と呼ばれていたこと、また境内から古瓦が出土することから、安立寺付近に国府があったとされてきた。 美濃国府廰趾と 記された安立寺の碑。 安立寺本堂 美濃の国府が、発掘された。 平成3年から9次にわたる発掘調査の結果、安立寺から100メートルほど南の 南宮 御旅神社 の境内から正殿跡が確認され、さらに、その南側から東西の脇殿跡と見られ る遺構が見つかった。 (2002. 05 10. 19取材) 正殿跡とされる御旅神社の境内 出土した須恵器 駿河麿の墨書が見える。 南から御旅神社を望む。 道路の左から東脇殿が発見された。 東脇殿が検出された場所。 ここから正殿が発見された。 御旅神社境内 御旅神社の南に広がる美濃国庁の発掘現場 第1次(1991)〜第9次(1999) 第3次調査で正殿を検出した。 美濃国府之宮(南宮御旅神社) 美濃国府が発掘された南宮御旅神社は、昔、 国府之宮とも呼ばれていた。 ここに国府 がねむっていることを、神社名によって後世に伝えようとしたのだろうか。 国府之宮と呼ばれたこの神社は、いわゆる美濃の総社に当たるのだろう。 総社には祭りの日に、その国の有力な神社の神輿が、御幸する。 美濃一之宮南宮神社の神輿は、相川を禊ぎ川渡りしてこの宮に到るので、後年、南宮神社の神輿のお旅所のような形になったものだろう。 総社の変遷の一例として興味深い。 境内は東西に長く、奥に本殿がある。 祭神は南宮大神の姉神の 金山姫命。 併せて豊玉姫命、埴山姫命を祀る。 御旅神社拝殿 掲額 美濃国分寺跡 南宮神社から北へ向かい、中山道を横切り県道216号線を東へ少し行くと 左手に美濃国分寺という大きな道標が見える。 美濃国分寺跡 東西231m、南北203m。 全国の国分寺の中でも最大級だ。 築地塀から金堂、塔などの礎石が、 ほぼ完全に近い形で保存されている。 七重の塔の礎石。 向こうに見えるのは金堂趾の基壇。 美濃国分寺復元模型 七重の塔をもつ堂々たる大伽藍である。 類聚符宣抄という古文書によると、寛弘元年(1004)閏9月、美濃国分寺の 破損状態を実験のため、官吏、木工、算師などを派遣したとの記事がある。 当時の中央政界は 藤原道長の時代であり、美濃国司は渡辺綱や坂田金時 などの四天王を擁した 源頼光であった。 台風でかなりの被害を出したのだろ うか。 道長や頼光がなんとなく身近に感じられる。 美濃国分寺復元模型 東に塔、西に金堂を配し、中門と講堂を回廊で結ぶ 逆法隆寺式(法起寺式)で、国分寺としては珍しい。 配置図は「飛鳥の寺と国分寺」 坪井清足著より 現国分寺 国分寺趾の北にある。 高野山準別格本山。 真言宗のお寺である。 地蔵像 たくさんの地蔵像が奉納されていた。 南宮神社 (美濃一之宮) 美濃一之宮南宮神社、御旅神社を出て御幸通を南に向かい 相川を渡り、東へしばらく行くと、これは立派なたたずまい。 美濃国一之宮 豪壮な楼門 主祭神は 金山彦命。 古くは仲山金山彦神社と呼ばれたが、美濃国府の南に位置するところから南宮神社と称するようになった。 この宮の宮司の 宮勝木実 みやすぐりのこのみ が壬申の乱で天武天皇に味方し、不破関を守ったので破格の待遇を得たという。 延喜式で国幣大社に列している。 高舞殿と拝殿 美濃国地図.

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