高杉 晋作。 【全て実話】まるで漫画のヒーローのようにイカしている『高杉晋作』のエピソード

革命の体現者、高杉晋作

高杉 晋作

歴史ものの漫画やゲームで天才キャラとして描かれる高杉晋作。 「名前は知っているけど、どんな事をした人なのかいまいちわからない」という人も多いのではないでしょうか。 実態は、漫画に出てくるヒーロー以上といっても過言ではない程、短くも濃い人生なんです。 裕福な家庭に生まれて秀才 父親の高杉小忠太(こちゅうた)の収入は年間200石だったようです。 長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士・高杉小忠太(大組・200石)・みちの長男として生まれる。 そして、晋作自身は吉田松陰(しょういん)が開いた『松下村塾』の中でも 四天王と呼ばれる程評価されていました。 お金持ちで秀才、人生の勝ち組です。 そのまま平穏に暮らしていれば、順風満帆だったかもしれない人生を自らぶち壊していきます。 尊王攘夷に没頭し、イギリス公使館を焼き討ち ヨーロッパやアメリカが技術力を背景にアフリカやアジアを植民地化していき、お隣の清(中国)はイギリスに『アヘン戦争』で負けて香港が奪われる有様。 「このままではいずれ日本も植民地になる」という事で、外国人(夷)を撃退する(攘う(はらう))べきという思想が出てきました。 これが『攘夷』で天皇を尊ぶ『尊王』が合わさって『尊王攘夷』。 この『尊王攘夷』という思想が志士達の中で盛り上がりをみせる中、ペリーが黒船でやってきて日本に強硬に開国をせまります。 結果的に日本は開国、その後、国内に各国の公使館が建設され始めます。 晋作は留学先の上海で植民地化されていく中国を目の当たりにし、このままでは日本も同じようになってしまうと危機感を抱き、帰国後から『尊王攘夷』運動に没頭。 まずは、手始めに子分を引き連れて品川御殿山にある イギリス公使館焼き討ちを計画。 部下には、後に大臣となった井上馨(かおる)や品川弥二郎、初代内閣総理大臣の伊藤俊輔(後の伊藤博文)がいました。 計画実行の日、各々は井上がこしらえた焼玉を一つずつ持ってアジトの妓楼に向かいます。 ここで計画露呈の危機が訪れます。 メンバーの一人が立小便していたところ、 「立小便したらダメだろ!」と番所に引っ立てられます。 取調べ中、 「焼玉が見つかって計画が露呈してはマズい」と、役人の目を盗んで 少しずつ焼玉の紙を剥いて食べ、最終的に食べきってなんとか証拠隠滅に成功します。 メンバーは無事にアジトに集結しイギリス公使館へ出発。 まずは、伊藤がのこぎりで柵を切断、焼玉を使って公使館を全焼させる事に成功。 妓楼に戻って、燃え盛る公使館を見ながらどんちゃん騒ぎしていたそうです。 しかし、こんな大事件を起こした晋作を藩は野放しにするわけにはいきません。 晋作は江戸から長州へ召喚されます。 すると、晋作は自ら頭を剃って『東行』と名乗り、 「10年間暇をいただきます 」と藩に休暇届けを出してなんと お坊さんになってしまいました。 奇兵隊の創設 『尊王攘夷』をスローガンにあげていた長州藩は、攘夷運動の一環として関門海峡を通過する外国船を砲撃します。 もちろん報復され、アメリカ、フランスの軍艦から凄まじい砲撃を浴びます。 当時の日本と欧米諸国の技術力の差は歴然、あっという間にご覧のとおり占領されてしまいました。 さて、圧倒的な武力の差を見せ付けられた藩主の毛利敬親(たかちか)は、お坊さんになっている晋作を呼びつけます。 晋作は初代『奇兵隊』の総督となりましたが、わずか3ヵ月後に、ある事件の責任を問われて罷免されました。 無断で京都に行ってしまい投獄される 晋作が『奇兵隊』総督を罷免された頃、京都で『八月十八日の政変』というクーデターが起こり、長州藩は京都から締め出されてしまいました。 会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件である。 出典: 長州藩内では武力で勢力を回復する案と、武力ではなく慎重に対応しようという案が対立していました。 晋作は慎重派のグループに属し、武力派のトップの来島又兵衛への説得を試みるも逆に臆病者呼ばわりされます。 晋作は 「 臆病者ではない証拠を見せましょう」という事で藩に無断で京都に行きます。 これが脱藩となり、投獄されます。 ちなみに晋作は重罪である(死罪もある)脱藩をなんと5~6回もしているのですが、 晋作の事がかわいい藩主は 「晋作のことだ、許してやれ」と、言っては投獄、謹慎レベルで済ませていました。 晋作が投獄中にフルボッコされる長州藩 晋作が脱藩の罪で投獄されている間に、長州藩は最大の危機を迎えます。 どれだけ フルボッコにされたのか時系列で辿っていきましょう。 1863年(文久3年)8月18日 『八月十八日の政変』で長州藩は京都を追放される。 1864年(元治元年)7月8日 『池田屋事件』で『松下村塾』四天王の吉田稔麿死去。 旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。 出典: 1864年(元治元年)7月19日 『禁門の変』で『松下村塾』四天王の久坂玄瑞、入江久一が死去。 前年の八月十八日の政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。 出典: 1864年(元治元年)7月23日 『禁門の変』の責任を問うために、『第一次長州征討』の勅命が発せられる。 幕府は毛利敬親と定広の親子 以下、藩主親子と記す に禁門の変を起こした責任を問い伏罪をさせるため、尾張越前および西国諸藩より征長軍を編成した。 出典: 1864年(元治元年)8月5日 幕府が攻めてくるのは時間の問題という状況の中、昨年(1863年)長州藩が実行した外国船への砲撃に対して、 「懲罰攻撃すべきだ」ということで、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4ヶ国連合艦隊に攻められ、長州藩はこのままでは惨敗するという状況に。 特に1864年7月から8月にかけての状況が 悲惨過ぎます。 このような状況のなか、長州藩はあの男に運命を託します。 魔王の如く 長州藩は、獄舎から出て自宅謹慎中だった晋作を呼びつけ、連合国との講和の全権を任せます。 晋作の身分では講和使節の使者としては不相応、ということで家老の養子『宍戸刑部』という 架空の人物を名乗ります。 そして、通訳として晋作の 永遠の子分でイギリス留学経験のある伊藤を引き連れます。 中央:高杉晋作 右:伊藤俊輔(伊藤博文) 相手側司令官との談判にのぞんだ晋作の態度に連合国は唖然とします。 その場にいたイギリスの外交官アーネスト・サトウは晋作の事を 「 負けたくせに悪魔(ルシフェル)のように傲然としていた」といった内容を著書に書いています。 連合国側が要求した条件のうち、晋作は以下2点をきっぱりと拒否します。 賠償金300万ドル 晋作は、攘夷行動(外国人の撃退)は 「朝廷からの攘夷願いを受けた幕府の指示なんだから幕府に請求してね 」と長州藩への賠償金請求を退けます。 結局幕府は半分の150万ドルを支払い、残額は後年、明治新政権が支払いました。 彦島の租借 長州藩領の彦島を香港のように貸してくれ、と要求された晋作は、なんと『古事記』の講釈を始めます。 日本がどのように創られたのか、という話を延々とするのです。 連合国側はもちろん、通訳の伊藤も 「高杉晋作は気が狂った」と思うわけですが、これは晋作なりの作戦。 交渉をうやむやにし、結果的に彦島の租借を諦めさせました。 もちろん、その他の諸条件(外国船の通航の自由など)は受け入れて連合国側と折り合いをつけました。 潜伏、そして功山寺挙兵 さて、『第一次長州征討』が迫る中、この年の7月~8月にかけてフルボッコされた長州藩に戦力はありません。 長州藩は、晋作などが属する改革派が政権を退き、幕府寄りの俗論派が政権を握ります。 俗論派が政権を握ったことで、晋作は命を狙われ福岡まで逃げて潜伏、しばらく長州藩の情勢を観察します。 そして、俗論派政権は『禁門の変』の責任者を処罰して幕府に謝罪します。 これにより、『第一次長州征討』は武力衝突がないまま収束しました。 この状況をみていた晋作は下関まで戻り、 「挙兵して俗論派と戦おう 」と長州藩の各諸隊に説きますが、応じたのは『遊撃隊』と伊藤率いる『力士隊』の計80名程だけでした。 しかし、晋作はなんと たった80名程の兵で長府の『功山寺』にて挙兵し、長州藩正規軍に戦いを挑みました。 「いずれ他の諸隊も同調してくれるだろう」と賭けに出たのです。 晋作の賭けは的中し、奇兵隊をはじめとした諸隊が次々に同調、最終的に2000人程の兵を集めて、正規軍を破って政権を取り返し、藩論を倒幕へとまとめました。 この時の事を伊藤は後年以下のように語っています。 「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、この時、一番に高杉さんの元に駆けつけたことだろう」と語っている。 出典: 第二次長州征討 長州藩は外国と戦った経験から現実的に攘夷はムリだ、と感じたように、薩摩藩もイギリスと戦って同じく攘夷はムリだ、と感じていました。 生麦事件の解決を迫るイギリス(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)と鹿児島藩の間で戦われた鹿児島湾における戦闘である。 出典: 『禁門の変』では敵味方にわかれた両藩は、1866年(慶応2年)1月21日に坂本龍馬などの仲介で『薩長同盟』をむすびます。 この同盟によって、長州藩は薩摩藩や龍馬の『海援隊』経由で外国製の最新武器を購入しますが、その動きを察知した幕府は1866年(慶応2年)6月8日に周防大島に兵を上陸させます。 ここに『第二次長州征討』の幕が切って落とされました。 周防大島では幕府兵によって多くの無抵抗な島民が犠牲になったことを知り、長州軍は島を奪還すべく作戦を練ります。 まずは周防大島へ上陸する前に敵を混乱させる、ということで、海軍総督となった晋作が『丙寅丸(へいいんまる)』という軍艦で 前代未聞の作戦を実行します。 周防大島には『丙寅丸』の2倍の大きさの幕府の軍艦が4隻。 まともにやりあうと勝てません。 晋作は皆が眠りについた夜間に、カンテラの光だけで幕府の軍艦の間を縦横無尽に走りながら大砲を撃ちまくります。 攻撃に気づいた幕府側は反撃しようとしますが、当時は蒸気船。 蒸気を立ち上げるのに手間取っている隙に『丙寅丸』はさっさと引き上げました。 この奇襲攻撃に動揺した幕府側は、翌日の地上戦で島民の反撃もあってすんなり負けてしまいます。 ちなみに『丙寅丸』は『第二次長州征討』が始まる直前に、晋作が藩に無断で3万6千両で購入した船。 1両を4万円換算したとすると、14億4千万円の請求が後日長州藩宛てに。 晋作は、 10億円レベルの買い物を藩に相談せずに独断で実行したのです。 そして、長州藩領各地は合計16万5千人という幕府軍に攻め込まれますが、戦国時代の装備の幕府軍は最新兵器を装備しゲリラ戦術を駆使した長州軍(4千人)に惨敗します。 死去 かねてから肺結核に侵されていた晋作は、『第二次長州征討』中に藩から療養に専念するように命令されます。 命令に従い下関で療養生活に入るも時すでに遅し。 病状が悪化し、1867年(慶応3年)4月14日 「 おもしろきこともなき世をおもしろく」という辞世の句を残し死去。 享年27。

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高杉晋作の生涯とは?刀や子孫、死因などについて解説!

高杉 晋作

高杉晋作が組織した奇兵隊とは?伝説エピソードまとめ! 高杉晋作が組織した奇兵隊とは?悲劇的な最後を迎えていた 高杉晋作は、江戸時代後期の動乱期を駆け抜けた長州藩士です。 尊王攘夷派の志士として活躍し、江戸から明治へと大きく時代が変わるきっかけを作りました。 幕末に、イギリスやフランスといった列強四国と下関戦争を起こした長州藩は惨敗。 力の差を思い知らされたことから、海外情勢に詳しい高杉晋作を呼び出し、意見を聞くことにします。 20歳そこそこの若さだった高杉晋作は、「臣に一策あり」と一言。 続けて、「請う、有志の士を募り一隊を創設し、名づけて奇兵隊といわん」と述べました。 これが、高杉晋作が23歳のときに結成した、近代的なシステムを備えた軍隊「奇兵隊」のはじまりです。 志があれば、身分に関係なく参加できると呼びかけると、4日間で、60人が集まったと言います。 その後も隊士の数は増え、武士のみならず庶民も参加し、西洋式の戦術と兵器を備えた奇兵隊は、諸外国の上陸に備えて、下関沿岸を防御する任務につきました。 1863年、奇兵隊のメンバーが武士を斬りつける事件が発生(教法寺事件)したため、高杉晋作は、その責任をとり、一度は奇兵隊の総監を解任されてしまいます。 しかし、幕府による第一次長州征伐で長州藩が敗北すると復帰。 第二次長州征伐において、幕府軍を撤退させることに成功しました。 高杉晋作亡き後も、奇兵隊は、倒幕を目的とした戊辰戦争で活躍しますが、明治時代になって、戦がなくなると、解雇命令が発せられ、多くの者が職を失うことに。 一部の隊士は反乱を起こしますが、最後は明治政府に鎮圧され、130人余りが処刑されて騒動は終わります。 高杉晋作の伝説エピソードまとめ!武士からお坊さんに?! 高杉晋作は、1839年に生まれ、1867年に没するまでの27年という短い生涯にもかかわらず、数々の伝説的なエピソードを残しています。 1863年、高杉晋作は、「今こそ倒幕に向けて動こう!」と長州藩に訴えましたが、「まだ10年早い」と言われてしまいました。 それを聞くと、「では10年暇をいただきます」と休暇届を提出。 勝手に頭を剃って、お坊さんになってしまったそうです。 また、藩に相談せずに、藩のお金で軍艦を購入したことが2回ありました。 今でいうと数億円にもあたる金額だというからその大胆さには驚くばかりです。 さらに、当時は死罪に処せられるのが普通だった脱藩行為を5回もしています。 それでも死罪にならなかったのは、やはり海外事情に通じ、頭脳明晰だった高杉晋作が長州藩から頼りにされていたからでしょう。 高杉晋作の辞世の句がイカしてる!妻の他にも愛人が? 高杉晋作の辞世の句は尼さんとの共作だった? 高杉晋作は、1867年、27歳の若さで肺結核により亡くなりました。 その際、「おもしろき こともなき世を おもしろく」という辞世の句を残したと言われています。 「面白くなるのもならないのも、自分の考え方次第」といったところでしょうか。 革命児らしい心のありようが伝わってくるかのようです。 このとき、病床で下の句を継げない高杉晋作に代わって、「住みなすものは 心なりけり」と続きをよんだのが、彼を看病していた野村望東尼(のむらもとに)でした。 それを聞いた高杉晋作は、「おもしろいのう」と言って、息を引き取ったとも伝えられています。 野村望東尼は、幕末の女流歌人。 福岡藩士だった夫が亡くなると、出家して尼となり、幕末の志士たちのサロン的存在だった「平尾山荘」の庵主を務めていました。 福岡藩士の紹介で、幕府のお尋ね者だった高杉晋作をかくまったこともあったと言います。 それがとがめられて、島流しにも遭いましたが、高杉晋作の命により救出されて、彼の最期を看取ることになりました。 自分の子を幼くして亡くしている野村望東尼は、高杉晋作をわが息子のように思っていたのかもしれません。 高杉晋作の妻は防長一の美人!愛人がいたって本当? 高杉晋作は、1860年に、防長一(長州藩の通称)の美人と言われた山口町奉行・井上平右衛門の次女まさと結婚しました。 しかし、妻まさとは別に愛人がいたという高杉晋作。 それが、おうのという芸者です。 おうのの家は貧しく、11歳の時に下関の芸者屋に売られました。 15歳ころから芸者として座敷に出始めて、20歳の時に、遊びにきた高杉晋作と出会います。 24歳だった高杉晋作は、妻のまさがいたにもかかわらず、おうのの美貌に惚れて、1863年に身請けし、妻とはほとんど一緒におらず、おうのをそばに置いていました。 高杉晋作の死後、愛人のおうのは、高杉晋作の名を汚してはいけないと尼となり、谷梅処と名乗ったそうです。 高杉晋作の没後150年を記念して特別展を開催!「高杉晋作の決意」とは? 高杉晋作の出身・山口県萩市にある萩博物館で、高杉晋作没後150年を記念した特別展「高杉晋作の決意-明治維新への助走」が開催されました。 本展は、日記や書簡などの資料が25点も展示され、幕末の動乱期を舞台に活躍した高杉晋作の軌跡を追っています。 展示の目玉は、高杉晋作が上海を視察したときの手記である「遊清語録」。 アヘン戦争に負けた中国が、欧米に屈し、まるで植民地のようになってしまった状況を目にし、「日本が上海の二の舞になってしまう。 なんとかしなければ!」と決意を固めていく様子が分かります。 もとより、「高杉晋作資料室」が設けられている萩博物館では、特別展の開催にあわせて、高杉晋作の甲冑も展示されました。 高杉晋作が使用した甲冑は、国内に2領しか現存していません。 そのうちの1領であることに加え、奇兵隊の陣中で実際に使用していた甲冑とあって、歴史ファンにとってはたまらなかったでしょう。 高杉晋作は、27年という非常に短い人生の中で、たくさんの記憶に残るエピソードを残しました。 どの逸話も、普通の人にはなかなかできない事柄ばかりです。 歴史に「もしも」は禁物ですが、優れた決断力と行動力を備えていた高杉晋作がもしも病気にならなかったら……、日本がどのような方向に進んでいったのかは見てみたかった気がします。 高杉晋作ら「幕末の志士」といえば、2018年のNHK大河ドラマは、西郷隆盛が主人公の「西郷どん(せごどん)」です。 配役が次々に発表されている最中ですが、高杉晋作を演じるのは誰なのかも楽しみでなりません。

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高杉晋作の生涯:1839年 誕生〜幼少時代

高杉 晋作

高杉晋作顕彰碑 撰文は伊藤博文で、杉孫七郎が揮毫しています。 頭書きの「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し…」はあまりにも有名で、高杉晋作の人となりと、行動をよく表しています。 明治44年(1911)5月20日、除幕されました。 隣接する福田公明の顕彰碑が小型のため、先に建立されました。 高杉晋作の顕彰碑は大型のために遅れ、初代庵主の梅処尼・おうのは、「旦那のが来ない、旦那のが来ないと」と待ち続け、完成を見ることなく亡くなっています。 高杉晋作顕彰碑(拡大) 高杉晋作顕彰碑 同除幕式記念碑 高杉晋作顕彰碑除幕式 明治44年(1911)5月20日、井上馨によって、高杉晋作顕彰碑が除幕されました。 井上馨は、参列者に「君に忠、親に孝、人と交わるに信…」と述べ、「諸君がその精神無くして高杉晋作君の碑に対せらるるは、誠に恥ずべきの至りであろうと思う」と結んでいます。 福田公明墓と顕彰碑 福田公明(侠平)の墓と顕彰碑で、高杉晋作に最も信頼されていたことからいずれも並んで建っています。 奇兵隊参謀として活躍し、北越に従軍しましたが、病気で下関に帰り、明治元年(1868)死去しました。 福田公明墓 福田公明顕彰碑.

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