終戦 何年。 第二次世界大戦の終戦記念日の年は昭和何年?祝日の黙祷時間には何する?

終戦75年企画展「アノ日、空ノ下デ君ハ何ヲ想フ」

終戦 何年

朝日は、日本国民のためを思ってポツダム宣言を受諾するに至ったとする終戦の勅書の言葉に「哭するの情に堪へない」と悲しみを表現し、「並々ならぬ苦難の時代」が何年も続くとした。 しかし次のように、明るい未来は待っているとも書いた。 挙国一家、国体の護持を計り、神州の不滅を信ずると共に、内に潜熱を蔵しつつ、冷静以て事に当るならば、苦難の彼方に洋々たる前途が開け行くのである。 また、太平洋戦争である「大東亜戦争」は間違っていなかったとして、戦争の収穫である「大東亜宣言の真髄」と「特攻隊精神の発揮」を今後に生かしていくべきだとした。 被抑圧民族の解放、搾取なく隷従なき民族国家の再建を目指した大東亜宣言の真髄も、また我国軍独自の特攻隊精神の発揮も、ともに大東亜戦争の経過中における栄誉ある収穫といふべきであり、これらの精神こそは大戦の結果の如何にかかはらず双つながら、永遠に特筆せらるべき我が国民性の美果としなければならない。 かくてこれらの精神が新なる国際情勢と新なる国内態勢との下に、新装をもって生成し行くとき、未来は終に我らのものといつてよい。 そして、改めて終戦の勅書への思いを述べ、昭和天皇と神々に対して「申訳なさで一ぱいである」とした。 あるはただ自省自責、自粛自戒の念慮のみである。 君国の直面する新事態について同胞相哭し、そして大君と天地神明とに対する申訳なさで一ぱいである。 一億同胞の新なる勇気も努力も、ともにこの反省と悔悟とを越えて生れ出るものでなければならない。 毎日は、戦争で命を捧げた兵士たちへの感謝を述べ、戦争に負けた責任について言及。 だが、敗戦の理由と原因を探ることも、責任について論じることもすべきではないとした。 戦ひ続けた結果は今日の事態となつた。 そのことに至つた理由と原因とを探究すれば、実に無数の理由と原因とが指摘されるであろうし、また大なるものと小なるものの指摘されることも可能であらう。 しかしわれ等はこの際において責任論など試みようとは思はない。 さうすべく自身の不肖を意識すること余りに強く、邦家の不幸から受ける悲しみは余りにも深いからである。 そして、過去を教訓にして未来に向かって進むようにと訴え、奥ゆかしさと労わり合う温かい心を持って「新しい生活」を迎えるようにと綴った。 更生の能力ある大民族はその試練を経て新しい運命を開拓するのである。 然らば、道義の基礎の上に強大日本を建設することに失敗した日本民族は、いづれの方向に進むべきであるか。 道義の基礎の上に真に強靭にして清浄な日本を建設することに向かつて進むのみである。 日本国民は再び血と涙と汗とをもつて長い道程を踏破することを今日只今覚悟せねばならぬ。 悲しみの中の大幸は皇室の御安泰である。 国民は恭敬もつて皇室を戴き如何なる悲境に陥るも精神的に崩壊することなき大国民の奥ゆかしさと、同胞互に劬はり合ふ温かい心をもつて、新しい生活に入らねばならぬ。 毎日は「乱れんとする心境」とこの時の気持ちを表した。 両紙ともに、混乱しながら社説を書いたことが読み取れる。 この日の両紙の社説には、国民を煽り続けた反省も戦争を否定する言葉もない。 しかし、新聞記者たちはその後、その反省を胸に再スタートを切った。

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【戦後70年】1945年8月15日、人々はどう受け止め、何を思ったか。当時の日記から終戦を追体験

終戦 何年

いきなりですが、みなさんは8月15日が何の日かわかりますか?? …そうですね!終戦記念日もしくは終戦の日です!!! 正式には「戦没者を追悼し平和を祈願する日」と日本政府によって定められています。 1963年に全国戦没者追悼式実施要項が閣議決定されたことで、政府主催の全国戦没者追悼式が行われるようになりました。 そして、1982年に8月15日を戦争を知らない世代に対して戦争の経験と平和の意義を伝えるため「戦没者を追悼し平和を祈願する日」として閣議決定されました。 現在の10代、20代にとっては当たり前の終戦記念日(終戦の日)は、今から35年前に閣議決定によって定められたものだったのです。 現在に生きる大半の人々が生まれる前の出来事である終戦について日本と海外におけるあれやこれやに触れながら今回はみなさんと考えていこうと思います。 そのときに、終戦の日や終戦記念日といった言葉が混在していることに違和感を持つ読者の方もいるのではないでしょうか。 そこで、5大紙とキー局では終戦の日と終戦記念日のどちらを主に使っているのかを調査してみました。 終戦の日 NHK、フジテレビ系列、テレビ朝日系列、TBS系列、産経新聞 終戦記念日 毎日新聞、読売新聞、テレビ東京系列 終戦の日と終戦記念日 日本テレビ系列、朝日新聞、日本経済新聞 といった結果となりました。 こうみてみると、終戦の日が多いものの特に決まりはないことがわかりました。 終戦の日という表現を使う理由についてNHKでは、記念日という喜ばしい日に使う言葉のニュアンスが終戦の日にふさわしくなく、不快な思いをされる視聴者もいるからだとしていました。 この3つの候補の中でどうして8月15日となったのでしょう。 ・8月14日 天皇陛下が御前会議でご聖断を下し、実際に日本がポツダム宣言を受諾することをジュネーブ経由で連合国側に通告したのが1945年8月14日でした。 そのことは全世界に公表していたものの、日本人にはまだ知らされていませんでした。 ・8月15日 1945年8月15日は戦争後の日本の終戦後のあり方を定めたポツダム宣言を受諾したことを日本国民と大日本帝国軍人に「玉音放送」という形で天皇陛下が直接語り掛けた日でした。 つまり、玉音放送によって国が国民に武器を置くことや敵対行為をやめることを命じ、戦闘状態を休止することを宣言した日なのです。 ちなみに、帝国国軍が戦地に赴いている軍人に対して武器を置くように命じた日は、次の日である8月16日なので、一般国民のほうが伝達が早かったことがわかります。 ・9月2日 ポツダム宣言受託時に1945年9月2日に降伏文書調印をすることが決められていました。 降伏文書調印式が東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号で行われ、降伏文書に調したことで国際法上戦争が終結しました。 このようにどの日も日本の終戦にとって意味があったことがわかります。 8月15日が終戦記念日となった一説として、「玉音放送」の印象が国民にとって強かったことや、8月14日と9月2日は右派と左派のイデオロギーで対立があったのでそれを政府が避けるために間をとったなど様々な説がありますが、残念ながら現段階ではっきりとした理由はわかっていません。 日本では8月15日が終戦の日とされていますが、一体海外ではいつが終戦日とされているのでしょうか。 そこで、いくつかの国をピックアップして紹介していきます。 ・アメリカ 米戦艦ミズーリ号の上で調印式を行った後にトルーマン大統領の演説で9月2日を正式に対日戦勝記念日とし、第二次世界大戦を勝利で終えたことを宣言したことによって、アメリカの第二次世界大戦の終戦は1945年9月2日ということになりました。 この前に、アメリカでは1945年8月14日に日本が降伏することが報道されると同時に、9月2日を対日戦勝記念日とする予定であることも報じられていました。 ・ソ連(ロシア) ソ連時代とその後のロシアとでは終戦記念日が変わっています。 ソ連時代では降伏調印翌日の9月3日を対日戦勝記念日としていました。 それは、降伏調印が行われている9月2日に、北方領土の歯舞島攻略作戦を実行し、5日に千島列島全島の占領したことのつじつまを合わせるためです。 1989年に冷戦が終結しソ連が崩壊した後も戦勝記念式典の開かれた9月3日を正式な対日戦勝記念日と定めていましたが、2010年7月にはロシア連邦共和国議会が、9月2日を「第二次世界大戦が終結した日」と制定す法案を提出し可決したため今では9月2日が終戦の日とされています。 ・中国 中華民国は当時中国大陸で戦闘に参加しており、連合国の一員としてポツダム宣言にも参加していました。 日本とは1945年9月9日に南京で正式な降伏調印をして国民党軍に降伏していますが、国民党政府はミズーリ号上の降伏調印日である9月2日を一区切りとして、9月3日~5日までを抗日戦争勝利記念の休暇としたこともあり、今でも中華民国では9月3日が記念日となっています。 一方、中華人民共和国では2014年から9月3日に対日勝戦に関する行事が行われるようになりましたが、それまで1945年8月15日まで日本軍は中華人民共和国と中華民国のどちらの軍と戦っていたのかという問題があったので正式な終戦記念日は存在していませんでした。 誰と戦っていたのかという問題の背景には、日中戦争では日本と国民党軍との闘いでしたが、北部の華北地方では日本は共産党軍と戦っており、そこに日ソ不可侵条約を破ったソ連が南下してきたこともあって複雑化した背景がありました。 ・韓国 韓国は日本の無条件降伏により独立した8月15日を記念し、国権回復を祝う行事が全国的に行われます。 いわゆる「光復節」です。 韓国の独立記念日である「光復節」は現代の韓国、そして韓国人の思考を作り上げたと言っても過言ではなく、「3• 1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統」と大韓民国憲法の前文にも明記されているほどです。 この日は韓国で大々的に行事が行われます。 国の至る所に国旗が掲げられ、独立運動に身を捧げた人々に感謝し、敬意を表します。 さらに、8月15日は大韓民国政府の樹立の日でもあります。 重要度は増します。 大統領が直接記念演説を行うことが定例行事です。 この演説を通じて韓国政府の平和観、そして日本に対する認識が伺えます。 ・北朝鮮 北朝鮮は8月15日を「祖国解放の日」と呼び、韓国と同じく祝日として指定しています。 北朝鮮の住民は毎年この日になると平壌の金日成• 金正日の像を訪れて参拝し、マスコミは各階層の労働者と学生が金日成• 金正日の像に花かごや花束を献花したとの便りと写真を公開しています。 北朝鮮は1930年代の金日成の抗日武装闘争を絶え間なく自国の歴史に含めてきました。 それに伴い、住民たちに「金日成が抗日遊撃隊を主体とした光復軍を作り、日本を破って祖国を解放した」と教えているそうです。 実際に、金日成が満州で小規模に抗日武装闘争を展開したのは事実ではありますが、実質的な朝鮮半島の解放は第二次世界大戦で日本が連合軍に降伏し、朝鮮半島から撤収した結果に基づいたものです。 また、北朝鮮は金日成のパルチザン闘争を誇張し「革命伝統を代を継いで継承、発展させるべし」との口実を元に権力の世襲の基礎を築いてきました。 金日成の息子である金正日も先軍政治に対する正当性をこの「祖国解放の日」を通して住民らに宣伝しています。 つまり、北朝鮮における「光復節」は金日成のために存在していることがわかります。 ・ドイツ ドイツでは5月8日を連合軍に無条件降伏し、新たに戦後史が始まった日として零時(Stunde Null)といわれています。 しかし、戦没者の追悼に関しては11月の第3日曜日に行われる「国民哀悼の日」が強調されています。 ここから、現在のドイツとナチスドイツを分離して考えるドイツの思想が見て取れます。 また、5月8日は終戦の意味もありますが、ナチスドイツからの解放が主としてとらえています。 上述通りに戦後の歴史が始まり、国の再建が行われたという認識に基づいていると見られます。 ドイツ以外のヨーロッパ諸国では、ヨーロッパにおける勝利を記念する日として5月8日はヨーロッパ戦勝記念日とされています。 第二次世界大戦はヨーロッパ戦線と太平洋戦争にわけることができ、太平洋戦争の終結が第二次世界大戦の終わりですが、ヨーロッパ諸国は一足先の5月にドイツが降伏したことにより終結していたのでした。 海外の終戦日から、終戦日は太平洋戦争時に日本の占領国であった国では8月15日、西側諸国では9月2日、東側諸国では9月3日が多いことがわかりました。 そして、名称からもその国の立場を反映していることがわかります。 終戦の日は国の複雑な事情も考慮に入れて作られた日であることが見て取れるでしょう。 各国の記念日はその国の歴史が反映されるものであり、その国の国民がある出来事についてどう感じるのかを知る手掛かりになるものです。 戦後72年がすぎ戦争を体験していない世代が増えた今だからこそ、日本側の目線ではなく様々な国の目線も考慮にいれて客観的に考えてみる事ができるのではないでしょうか。 mielka. kyoto gmail. facebook.

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終戦75年企画展「アノ日、空ノ下デ君ハ何ヲ想フ」

終戦 何年

1945年8月15日、日本は。 正午には、昭和天皇自ら「玉音放送」を行った。 その日、人々はどのように終戦を知り、受け止めたのだろうか。 当時の人々が書いた日記や作文を掲載し、70年前の8月15日を追体験したいと思う。 十三時頃だったか、山本君が息をきらしてきて、「日本は無条件降伏したげな」といった。 僕は、おったまげてしまって、物もいえなかったが、気をおちつけて、よく聞いたら、十三時にラジオがいったそうだ。 そして、はじめに、天皇陛下御自ら御放送遊ばされたそうだ。 僕は、それは敵が沖縄からでも、デマ放送しているのだろうと思ったが、町をあるいてみると、街角という街角は、みなその話でもちきりだ。 僕はいくらなんでもそんな馬鹿なことがあるものか。 まだ戦力はいくらだってあるのに。 それに、陛下御自ら御放送遊ばされるなんてそんなおそれ多いことがあろうはずがないといいあった。 家にかえってみると、近所の人々がいろいろ噂しあっている。 みな非常に憤慨している。 山本君のお母さんは、「せめて、あの子供の仇だけでもとりたかったのに」とおっしゃって、声をうるませるので、かわいそうでみていられない。 七時の報道のあとで、首相の演説があるというので、山本君と二人で多田へききに行って、今日の新聞(西日本)をみた。 大きく「大東亜戦争終完の御聖断下る」とあり、その下に詔書が謹載してあった。 道を通る人は、みんなプリプリおこっている。 ラジオはサッパリ聞こえなかった。 海軍大臣は自決された。 米英中ソ共同宣言に応じたのはあの広島に使用した残虐極まる原子爆弾によって、大和民族が絶えてしまうのを御慮いになって、この御聖断をお下し遊ばされたとうけたまわる。 しかし、我々の考えとしては、あくまで闘い、最後の一人まで戦って、死にたいのである。 まだ、こんなに兵力も武器もあるのに……。 たとえ、大和民族が絶えてしまおうとも、恥さらしな降伏をするよりも、世界の人々から、日本人は最後の一人まで戦って敗れたとたたえらえる方がよい。 やがて、兵隊は武装解除となり、中等学校以上の学校はなくなり、工場は休み、米英人はわがまま勝手に本土へやってくるだろう。 こんな事がはじめから知れてるなら、ありったけの兵器を特攻兵器として仇敵撃滅に使用したろうに。 もう今日となってはあの飛行機も無用の長物になってしまった。 特攻隊の人なんか、どんなに地団駄ふんでくやしがったろう。 今日に限って、ブンブン飛ぶ味方機をみてうらめしくなる。 まだあれだけ飛行機があるのになあ。 実際、くやしかった事は、筆の下手な僕には書いて表せない。 くやしくてくやしくて。 国武さんの伯母さんも飯島さんもくやしいといって泣かれる。 この日記を書いたのは、竹村逸彦さん。 ものこごろついた時から軍国教育を受け、当時は「軍国少年」だった。 この日記は1945年から1946年にかけて書かれたもので、竹村さんが久留米市に寄贈。 現在は、同市の六ッ門図書館で9月6日まで開催中の展覧会「戦後70年 平和資料展 少年が見た久留米の戦争」で展示されている。 昭和十六年十二月八日から昭和二十年八月十五日の間に、私たち国民は食糧増産や飛行機や軍艦戦争に使う武器を作る為に働いていました。 勝つのだ勝つのだといっていましたがとうとうアメリカの勝ちで日本は無条件降伏したのです。 十四日の夜は熊谷や私たちの村も爆撃したのです。 その時はもう死んだのか生きているのかわからなくなってしまいました。 みんな火でうづめつくされてしまいました。 十四日の夜が明けて十五日になりました。 熊谷の方の人たちは焼け死んだ人もたくさんあるという事でした。 私は「もう学校へ行かなくてもいいのかな」と思いました。 負けても行くのだそうです。 その時はみんなおどろいて働く人は一人もいません。 お昼の時ラジオのニュースで重大放送がありました。 熊谷付近は焼けてしまったので、電気は通じていませんでしたのでラジオを聞く事ができません。 その日の夕方「日本が負けた」というのを聞きました。 この作文を書いたのは、吉田タケ子さんだ。 作文は現在、埼玉県平和資料館が所蔵。 この続きには、「政府は国民にうそをいって、アメリカの方がたくさん軍艦を沈めたのに、日本の戦果の方を大きくしたり」していたこと、「東條は戦争を始める時、内閣としていばっていました。 終戦になって直ちに戦争はんざい人となりました」「今は東條のにくらしい事が思い出されて急にくやしくなる事もあります」という率直な気持ちが書かれ、正確な情報が広まっていった様子がうかがえる。 ブラジルに渡航し、サンパウロで働いていた30代の男性の日記から。 本日はサンパウロ市ラジオは朝から日本のニュースを報じ騒しい。 午後の新聞は、日本は降伏をしなければならぬ、また平和交渉が進められていると、大騒ぎである。 英国および米国各地では、国民がうき足立って大騒ぎであると報じている。 とにかく当地新聞ラジオの模様によって、恐らく一週間は持ち切れまい。 あまりの事に先はわかり切っている、と思って、今日は一日、市内には出かけなかった。 夜なべ仕事をしていたら、ガゼッタ社のサイレンが鳴って驚かした(夜八時半頃鳴る)。 九時半近く、またサンパウロ市ラジオは日本が無条件降伏したと放送した。 九時頃、高橋君が、東京ニュースをわざわざ知らせに来た。 よると、今朝東京放送は、東京湾犬吠埼付近二百海里に敵艦約四百隻を持って来軍し、十三日朝より大海戦中にて、目下日本は潜水艦隊その他によって、もう攻撃を加えている云々。 自分は今だ日本より確報はないが、最後の一人を決心して、今さらロシヤの外交やボンバ(原爆のこと)の一つ二つが落ちて降伏などは夢にも考える事は出来ぬ。 (中略)今日の現実にとうとう一部の同胞のろうばいは、みるにつけ残念の限りである。 夜十時過ぎて邦人間は東京よりの放送で、みな、いきを吹き返した。 東京より今朝米国は、ワシントン駐在のスイス大使を通して日本に平和問題を申込んで来たとただ通知があったよし。 尚昨夜は東京より、東京湾その他にて英米艦船約二百隻が、我が軍に降伏して来たと放送があったよし。 また鈴木貫太郎首相が辞職して、本日東久邇宮殿下が新内閣を拝命したと報じている。 尚殿下は本年五十七才になられるよし。 以上いずれも東京ラジオニュース。 その他の新聞も全部日本の事はやや判明したように報じている。 いかなるブラジルの新聞とて、これ程の世界の大事件を勝った日本を降服、降伏では自国に起こる数々の大問題につじつまが合わせられまい。 感情はぬきにして、英米が負けた事は負け、本当に知らせる他にみちはあるまい。 この日記を残したのは、1906年生まれの楡木久一さん。 栃木県に生まれ、1931年にぶえのすあいれす丸でブラジルに渡航。 サンパウロ市に居住し、行商、飲食店、洋服の修繕などの仕事に従事した。 現地の新聞やラジオに接していたが、日本の降伏を「デマニュース」と断じるいわゆる「勝ち組」だった。 楡木さんの日記は、「楡木久一関連資料」として国立国会図書館憲政資料室に所蔵されている。 「その日」は晴れだった。 きのう回覧板が回ってきて、今日の正午にラジオで重大放送があるのでかならず聞くようにと書いてあった。 きのうお父さんは、「いよいよ本土決戦になるから、最後の一人になるまで戦えという天皇陛下のお言葉が伝えられるのだろう」とおっしゃった。 昼前に寮の中庭にラジオを用意して、みんながその前に集まった。 ラジオの具合が悪く、おじさんがいろいろやっているが、ガーガーと雑音ばかりする。 そのうち男の人が甲高い声でむずかしいことを言っているのが聞こえてきた。 放送が終わっても、ぼくには何のことか分からなかった。 寮のおじさんが「戦争が終わったんだ。 日本は負けたんだ。 今のは天皇陛下のお声だ。 おいたわしい」と言って、目からなみだをこぼした。 その時、お母さんが小さな声で「ああ、よかった」と言った。 日記を書いたのは、首藤隆司さん。 1936年、愛媛県に生まれ、1945年に高松市空襲で罹災している。 日記は首藤さんが「夏休みに戦争が終わった〜ある国民学校生徒の日記」(文芸社)として2012年に上梓したもの。 日記はその後も続き、終戦の約1カ月後、9月14日には、学校で野球クラブができ、父が闇市でミットを買ってきてくれたことが「夢のようだ」とつづられている。 その日の日記は、こんなふうに締めくくられていた。 野球というのは、なかなかおもしろいスポーツだ。 戦争が終わってから、毎日が楽しくて仕方ない。 (編集注:これらの日記や作文について、一部、漢字やかなを現代語表記にしている他、原文を損なわない程度に誤字を直し、改行を加えた上、掲載しています。 詳細は原典をご覧ください) 【関連記事】•

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