ジンギスカン 由来 語源。 ジンギスカンが北海道名物の理由

ジンギスカンの名前・漢字の由来とは?

ジンギスカン 由来 語源

A ベストアンサー こんばんは、0801さん。 仰るカテキンの含有量の多いお茶は、花王から出ている「ヘルシア」じゃないかと思います。 参考URLをご覧ください。 これは一本に茶カテキンを540mg含むとのことですが、この量は市販のお茶数本~十数本分ではないかと思います。 これだけのお茶を飲むのはたいへんそう・・・。 苦いし高いし(180円)コンビニでしか売っていないし(コンビニ展開のみ)で、まさに3日坊主で終わってしまいましたが・・・。 バイト先の会社員で、30代ぐらいからの男性社員がよく飲んでいるのをみかけます。 それはともかく、自宅で作るお茶のうち、もっともカテキンの量が多いのは緑茶、なかでも煎茶だそうです。 これはお茶のカテキンは高温でよく出る成分だからだそうです。 だから高温でいれる煎茶が一番多い・・・となるそうです。 またカテキンは発酵茶などでは減少するとかで、そのために海外のお茶、紅茶や烏龍茶には少なめになっているのだそうです。 ただし、海外にももちろん非発酵茶はあります。 白茶などはどうなんでしょうね。 日本語で書かれたサイトや本には、日本で手に入りやすい日本茶のカテキンにのみ絞って書かれているため、海外のお茶についてはわかりませんでした。 また、このカテキンをもっとも効率よく摂取するためには、煎茶を粉茶にしてまるごと飲みお茶っ葉を無駄にしないことだそうです。 すんごく渋そうですね。 kao. 仰るカテキンの含有量の多いお茶は、花王から出ている「ヘルシア」じゃないかと思います。 参考URLをご覧ください。 これは一本に茶カテキンを540mg含むとのことですが、この量は市販のお茶数本~十数本分ではないかと思います。 これだけのお茶を飲むのはたいへんそう・・・。 A ベストアンサー >「ご賞味下さい」は上から目線ぽいって言われたこともありましたが、本当はどうなんでしょうか? 「賞」という字を辞書で調べてみました。 例解新国語辞典第二版三省堂 =============================== 【賞】ショウ 1 ほうびのこと。 2 ほめたたえる。 3 味わってたのしむ。 =============================== 上の 2 の通り、「賞味」は「ほめたたえる」の項に入っています。 「賞味」には「ほめる」という意味が含まれていることは明らかです。 「賞」という漢字には、和語の「ほうび」、「ほめたたえる」、「味わってたのしむ」などの意味が含まれています。 「賞」という漢字を使う限りは、どの言葉にも、上の三種の和語の意味は大なり小なり含まれてきます。 こういうことは、漢字と和語の関係を考えるときの基本中の基本です。 食べ物屋(食品メーカー)がパンフレットに「ご賞味ください」と書いても、上からの目線ということはありません。 「美味しいものですから、よく味わって食べてください」という宣伝文句です。 多少押し付けがましい感じはしますが、商人は昔から自分の品物を売るのに謙遜したりしません。 しかし、一般人が粗品と書いた菓子折りなどを他人様に贈り、「ご賞味ください」と葉書に書いたら、笑われますね。 「美味しいものですから、よく味わって食べてください」ということですから、一般人がこんなことは言ったらおかしいです。 こういうときは、葉書に「ご笑味ください」と書くのが教養人の常識でした。 「粗末なものでお口には合わないと存じます。 お笑いください。 」と謙遜して言うわけです。 そうして、もらった方は礼状に「ありがたく賞味いたしました。 」と書くわけです。 美味しいと思って味わいましたということです。 他の人に面と向かって「この間の結婚式のあなたの歌は素晴らしかった。 」や「この前いただいた饅頭は大変美味しかった。 」ということは「ほめる」という行為です。 新人アナウンサーさんもよく理解できました。 4cast. jhtml? 例解新国語辞典第二版三省堂 =============================== 【賞】ショウ 1 ほうびのこと。 2 ほめたたえる。 3 味わってたのしむ。 =============================== 上の 2 の通り、「賞味」は「ほめたたえる」の項に入っています。 A ベストアンサー 「かりゆし」は検索で調べると、一杯出てきます。 「沖縄かりゆしFC」の名前にも使われ、沖縄地方で、幸せ・縁起がよいこと・めでたいこと、などの意味だそうです。 他方、語源的には、参考URLの説明では、与論島の言葉で、「軽石(かるいし)」で、船出する時、軽石は沈まないので、「かりゆし」と声をかけて、船の安全を祈ったそうです。 縁起のよいこと・幸福をもたらすことの意味だそうです。 これは、沖縄では「最高の物」「究極の物」という意味になるそうです。 いずれにしろ、縁起のよいことでしょう。 s-direct. html A ベストアンサー No3さんの回答が一般的なのですが、文字の成り立ちには諸説あるので、違った観点から意見を言わせてもらいます。 「幸」は一説によれば、元の成り立ちは、刑罰に使われた手かせの形と、それを逃れる意の字(逆のしんにょうを取った字)が合わさったものとされています。 一方、「辛」はNo3の方も言われていますが、入れ墨針の形からです。 この入れ墨針は、刑罰者に用いられていた入れ墨針です。 つまり、「幸」は刑罰用の手かせ、「辛」は刑罰用の針、から成り立っています。 刑罰道具という事では、二つの漢字には関連があるとも言えます。 どのみち、「横棒を一本取ったら~」というのは、完全に後付けの関連です。 それにしては、よくできた関連付けだと思います。 校長先生のスピーチとかで、よく聞くエピソードですからね。 goo. 仮名垣魯文の『安愚楽鍋』(明治4年)では牛馬の屠殺の意味で使っていたという情報もありますね。 melma. ですから私は、元々は人や動物に関して使われていた言葉が次第に物一般に対象を広げたのではないかなという印象を持っています。 まあ、明治4年と言えばガソリンエンジンが発明される5年前で、当時日本には蒸気自動車すらなかった(ちなみに初輸入は明治34年だそうです)わけですから、少なくともこの言葉が自動車解体作業時の音から生まれたとは考え難いですね。 時に不思議なのは、ネットで鉄道関係の用語を調べても「ポンコツ」がまったく見当たらない点です。 goo. 仮名垣魯文の『安愚楽鍋』(明治4年)では牛馬の屠殺の意味で使っていたという情報もありますね。 A ベストアンサー 気象庁のページにはいろいろなデータがありますが,このような「気象要素のランキング」はなかったように思います。 今ざっと見てみましが,見当たりません 気象年鑑には,各種のランキングが載っています。 ただ,「連続無降水記録」は出ていますが,曇や雨の連続記録は載っていません。 実際問題として,特に「曇の連続」は難しいでしょう(夜がありますから)。 日照時間ゼロの日の連続なら,記録はとっていると思います。 テレビの天気予報で,気象予報士がちらっと言っていたような気もしますが,残念ながらはっきりとは記憶していません。 2の回答で紹介されている「東京で27日間」は,参考URLのページを見たところ,書き方から判断して,おそらく「東京での最高記録」だと思われます。 気象庁統計室には,きっとデータそのものはあると思うのですが…。 私も気になります。 気象庁のお天気相談所に問い合わせるのが早道かもしれません。 ちなみに,『気象年鑑』によると,無降水記録の1位は92日。 大正6年11月3日~7年2月2日,大分だそうです。 2位は72日(昭和48年11月10日~49年11月20日,宮崎)。 他にも4か所で72日の記録がありますが,最も新しいのが宮崎です。 3位は71日(昭和48年11月11日~49年11月20日,東京)。 他13か所で71日。 ご質問の「今から30~40年前」はこれでしょうか。 ちなみのちなみに,こういう場合,2位が5つあるからといって,その次を7位とはしません。 運動競技などではトータルの出場人数が決まっていますが,気象記録では出場地点数?は無制限なので,数字を飛ばしてもあまり意味がないからです。 気象庁のページにはいろいろなデータがありますが,このような「気象要素のランキング」はなかったように思います。 今ざっと見てみましが,見当たりません 気象年鑑には,各種のランキングが載っています。 ただ,「連続無降水記録」は出ていますが,曇や雨の連続記録は載っていません。 実際問題として,特に「曇の連続」は難しいでしょう(夜がありますから)。 日照時間ゼロの日の連続なら,記録はとっていると思います。 テレビの天気予報で,気象予報士がちらっと言っていたような気もしますが,残念なが... A ベストアンサー 時々見かける質問ですが。 原産の桃は尖っていて丸い桃は比較的最近のもので日本で品種改良した結果という解釈が多いようです。 nissinen. shtml つまり桃太郎の話と一緒に古い桃の形も継承されているということらしいです。 また桃型と称する昔の陶磁器や工芸品や昔の絵を見ても尖った形のものが多いです。 装飾的な絵画、工芸では様式としてある形、先人の描いた絵をお手本にすることも多いでしょうからそういうお約束になっているとも考えられますが、しかし絵師の中に昔の桃がそうだったという知識があるから昔話の桃には尖った形がふさわしいという選択が働いている、あるいは働いていたと考えたほうが自然に思います。 書物で考察を見たような憶えがありますが詳しい内容も書名も思い出せません。 Q 土用丑の日も近く、うなぎが気になります。 うなぎの蒲焼の焼き方は、関東と関西で違うそうですね。 関東は蒸してから付焼きにする、関西は蒸さない。 「江戸前うなぎ(蒲焼)」と称する鰻屋さんがありますが、HPなどを見ると、関東風の蒲焼を出している店が多いようです。 私は「江戸前」というのは、江戸の海でとれた魚のことだと思います。 落語風に言えば、「品川沖に船を出してとってきた魚」。 だから「江戸前うなぎの店」というと「東京湾でとれたうなぎを出す店」と思っていました。 焼き方だけでいうなら、「関東風うなぎの蒲焼」とか「東京風の蒲焼」だと思うのですが、どうなのでしょうか? たくさんの方のご意見をお聞きしたいです。 A ベストアンサー 江戸で鰻が流行したのは、江戸城のお堀拡張などの工事を行った時に大量に鰻が採れたからと言われています。 その当時は筒切りにした鰻を串に刺したものや小ぶりの鰻をそのまま串に打って焼いて、味噌や酢をつけて食べていたそうです。 その形から蒲穂(がまほ)焼きといわれ、後に蒲焼という名前になったそうです。 裂きが広まったのは、1750年前後と言われており、 裂きの古い記録は、林鴻作著「産毛」 1700頃 の京都四条河原の夕涼みの絵に、露天の鰻売りが描かれ行燈には「鰻さきうり」「同かばやき」と描かれているのが見られます、蒲焼と裂きは別の料理だったようです。 また、江戸は武家が多かったので、腹裂きは「切腹」に通じると言って、縁起を担ぐ昔の人は嫌っていました、なので、関東では背を裂く捌き方が広まりました。 江戸前と言う言葉の意味は諸説あり、 1.江戸城の前でとれた鰻を江戸城前と言ったのが始まり 2.1と被るのですが、江戸時代に江戸前島という島(半島のような鼻)がありその前で採れた物を指していた、品川沖は厳密には江戸湾ではないですし、品川宿が江戸に含まれていません、江戸は高輪の大門まで(江戸後期辺りから)。 江戸湾は今のような広範囲の物ではなく、皇居の前が日比谷入江と呼ばれ、現在の皇居と東京、有楽町、新橋を結ぶラインの間は海でした。 1620年ごろには埋め立てが進み、東海道に沿った地形になります、そのときには江戸前島は消滅してしまいました。 この日比谷入り江を埋め立て、堀の工事をした時に鰻が多く採れたと言うことです、今は地名にしか残っていない小石川や平川と言う川がありました。 その後、品川沖から江戸川下流までを指すようになったと言うことです。 3.職人の仕事のことを上方(大阪)流に対し、江戸流(流儀)のと言う意味で江戸前と言った。 現在の江戸前はこの3の職人の江戸流儀の仕事を指すほうが主流になっていると思われます。 ちなみに現在のタレの味は1800年ごろに出来たようです。 江戸で鰻が流行したのは、江戸城のお堀拡張などの工事を行った時に大量に鰻が採れたからと言われています。 その当時は筒切りにした鰻を串に刺したものや小ぶりの鰻をそのまま串に打って焼いて、味噌や酢をつけて食べていたそうです。 その形から蒲穂(がまほ)焼きといわれ、後に蒲焼という名前になったそうです。 裂きが広まったのは、1750年前後と言われており、 裂きの古い記録は、林鴻作著「産毛」 1700頃 の京都四条河原の夕涼みの絵に、露天の鰻売りが描かれ行燈には「鰻さきうり」「同かばや...

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ジンギスカン (料理)

ジンギスカン 由来 語源

「芭蕉」という文字ですか、見覚えがありませんか? そう、あの「奥のほそ道」や「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句で有名なあの松尾芭蕉ですね。 これらは日本人ならば誰でも聞いたことがあるといってもいいぐらい有名ですよね。 松尾芭蕉は、現在の三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師です。 ではバナナと松尾芭蕉にどんな関係があるのでしょうか?松尾芭蕉がよく食べていたフルーツだからそれが芭蕉と呼ばれるようになった?そうではないようです。 というよりは逆でした。 松尾芭蕉はもともとは桃青と名乗っていました。 ですが、ある日、桃青の弟子が桃青の自宅の庭に芭蕉の木を植えました。 当時の1600年代には芭蕉の木は非常に珍しかったこともあり、桃青はそこから名前をもらって松尾芭蕉と名乗るようにしたとのことです。 聖書に詳しくない人でもこれぐらいは誰でも知っている話ですよね。 この禁断の果実はリンゴだったと教わりませんでしたか?なんとこれがリンゴではなくバナナだった?という説が存在しています。 ルネサンス時代のヨーロッパ以外の学者たちはその果物は正しくはバナナだと主張していたのです。 また、楽園の物語を旧約聖書とは違う形で語っているコーランではまさにバナナと書かれているそうです。 バナナの起源 バナナの歴史は大変古く、マレー半島のあたりで紀元前5000~10000年ごろに偶然できたバナナの苗を人間が栽培するようになったのが現在のバナナの起源のようです。 もともとバナナは我々が知っている大きさではなく、人差し指ほどの非常に小さく、しかも種があるバナナだったそうです。 当時の人たちにとって、それをあえて食用に栽培しようするものではなかったそうですが、ある時期突然種無しバナナが出現します。 突然変異または偶然の異種交配によるものと考えられています。 それは大きいものであり、食用に適していたので栽培がはじまったそうです。 私たちが普段食べているのはマレー半島原産の「ムサ・アラミナータ」とフィリピン原産の「バビルシアーナ」の2種がもとになっているといわれています。 この2つの「ムサアラミナータ」と「バビルシアーナ」の2つが出会ったことにより、様々な品種が生まれてきたという歴史があります。 バナナを西洋に広めたのはあのアレクサンドロス大王だった! 紀元前300年代に活躍した大遠征をしたことで有名なマケドニアの王アレクサンドロス大王はインドのインダス側上流でバナナを発見し、船でバナナをエジプトに持ち帰ったそうです、 これによってバナナは初めて西洋にもたらされることになりました。 このことから、インドから西方へのバナナの伝播は中近東を通らずに海を渡ったと考えられています。 フランス人の神父によってアメリカにもバナナが広まる コロンブスのアメリカ大陸発見後の16世紀ごろ、フランス人の神父がアメリカへ渡航する際、西アフリカのカナリヤ諸島(スペイン領)に立ち寄りました。 そこで手に入れたバナナの苗を持って大西洋を渡りました。 そして 中米ハイチに上陸し、苗を育ててみたところ、気候に合っていたため繁殖しました。 ここからキューバ、メキシコ、ブラジルなど、アメリカ大陸に移住者とともに広まっていきました。 台湾からの輸入で日本にもバナナが入ってくる 現在は比較的安価なフルーツの代表と言えるバナナですが、日本に入ってきたころは非常に高価なフルーツでした。 贈り物やお見舞いの品など、ごく限られたときにしか買えないようなものだったそうです。 1949年には市場での卸値は1キロあたり、1000円以上に相当する値段がついていました。 当時の日本人の平均月収は10000円弱程度でしたので、平均月収の1割もするということですね。 これは何故かというと輸入数が制限されていたからです。 当時の日本では外貨が不足していたので、バナナは必要性の低いものと考えられていました。 数の限られたバナナの輸入権利を獲得しようと多数の業者が争う形になってしまったため値段が跳ね上がってしまったのです。 しかし、戦後の日本は自国の産業保護のために輸入制限をすることが許されない状況になったために 1963年(昭和38年)にバナナの輸入が自由化されました。 これに目をつけたのがフィリピンです。 輸入自由化された日本市場向けのバナナを生産するために、大農園(プランテーション)が作られます。 これによって1970年代のフィリピン産のバナナが大量に出回るようになり、台湾産は次第に数を減らしていきました。 1970(昭和45年)の時点では、エクアドル産バナナが1位になったのですが、その後、1973年(昭和48)年ついにフィリピンが一位になります。 以降、 現在に至るまでバナナはフィリピンからの輸入がトップを独占するようになりました。 それに伴い価格も安価なものになり、日本人に定着していくようになりました。 日本では沖縄、小笠原奄美諸島などのごく限られた地域での少量生産やハウス栽培などで栽培されるのみで戦前・戦中から現在に至るまでほとんどを外国からの輸入にたよっていています。 果物・野菜の漢字表記について• バナナに関する記事•

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チンギス・カン

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日本語での名前表記については複数の表記揺れがある(の節を参照)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたの諸部族を一代で統一し、・・・などを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模のであるの基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響はにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。 特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のにおいて国家創建の英雄として称えられている。 生涯 [ ] チンギス・カンの先祖と生い立ち [ ] チンギス・カンの生まれたモンゴル部はの解体後、バイカル湖の方面から南下してきてモンゴル高原の北東部に広がり、11世紀には君主(カン、ハン)を頂く有力な集団に成長した遊牧民であった。 チンギス・カンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書『』によれば、その遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立った(「」の意)とその妻なる(「青白き鹿」の意)であるとされる。 ボルテ・チノの11代後の子孫ドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、その未亡人は天から使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま3人の息子を儲けた。 チンギス・カンの所属するの祖となるボドンチャルはその末子である。 ボドンチャルの子孫は繁栄し、様々な氏族を分立させ、、ジャライルといった異族を服属させて大きな勢力となった。 やがて、ボドンチャルから7代目とされるが初めてモンゴル諸部族を統一して「」の(ハン、ハーン)の称号を名乗り、カブル・カンの子孫はを称するモンゴル部の有力家系となった。 チンギス・カンの父は、の孫で第3代カンとなったの甥である。 『元朝秘史』、『』などが一致して伝えていることには、チンギスが誕生した直前にイェスゲイは族の首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカと戦い、このテムジン・ウゲを捕縛して連行して来たという。 『元朝秘史』などによると、この時、氏出身でイェスゲイの妻ホエルンが産気づきオノン川のデリウン岳でイェスゲイの軍が下馬した時に出産したといい 、このためイェスゲイは、その戦勝を祝して出生したばかりの初の長男の名を「テムジン」と名付けたと伝えられる。 テムジンの生年については、当時のモンゴルに歴史を記録する手段が知られていなかったため、同時代の歴史書でもそれぞれ・・と諸説が述べられており、はっきりとはわからない。 父イェスゲイは、カブル・カンの次男バルタン・バアトルの三男という出自でキヤト氏の中では傍系に属したが、(勇者)の称号を持つ有力者で、モンゴル高原中央部の有力部族連合の王(またはトオリル。 のちのオン・カン)とも同盟関係を結び、ケレイト王国の内紛で王位を追われたこのトグリルの復位に協力したことで、一代で急速に勢力を拡大した。 また、『元朝秘史』によるとテムジンが9歳の時に、父イェスゲイに伴われて母方の一族であるコンギラト部族のオルクヌウト氏族に嫁探しに出かけた逸話が載せられている。 この時、途中で立ち寄ったコンギラト部族の本家筋の人物だったらしいの家でその娘と出逢い、イェスゲイとデイ・セチェンはテムジンとボルテ両人に許嫁の関係を結んだと伝えられる。 イェスゲイはその後のテムジンの養育をデイ・セチェン一家に頼んで自家に戻ったという。 しかし、程なくしてイェスゲイが急死し、その勢力は一挙に瓦解してしまう。 テムジンは、父の死の知らせを受けて直ちに家族のもとに戻された。 幼い子供たちを抱えてイェスゲイ家の管理権を握った母は、配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中で子供たちをよく育てた。 テムジンが成人してくると、テムジンの族曾祖父にあたるモンゴル部のボルジギン氏の第2代のカンであるの系統でキヤト氏のライバルだった氏の首長タルグタイ・キリルトク(テムジンの族父でアンバガイ・カンの孫)らは、イェスゲイの子が成長して脅威となることを怖れ、テムジンを捕らえて自分たちの幕営に抑留した。 テムジンはこの絶体絶命の危機を、タイチウトに隷属民として仕えていた氏の牧民の助けなどによりようやく脱したという。 成人すると、今度はモンゴル部の宿敵部族連合の王率いる軍勢に幕営を襲われ、夫人ボルテをメルキトに略奪されるなど辛酸を舐めた。 このとき、ボルテを奪還するのに尽力してくれたのが、父の同盟者でもあったケレイトのトグリル・カンや、モンゴル部内のテムジンの盟友(アンダ)で、おなじモンゴル部であるの首長といった同盟者たちだった(: 、頃)。 『元朝秘史』は、このような境遇の中、ある事件により偶然テムジンと友人になったアルラト氏の、先祖代々テムジンの家に仕えていたウリヤンカイ氏の、ソルカン・シラの息子、兄弟らは後のの有力な将軍となる遊牧騎士たちが、テムジンの僚友()として彼のもとに仕えるようになった事情を語っている。 後にジェルメは、、の3人と共に「」と呼ばれる重臣となる。 「四狗」は戦で必ず先頭に立ち、敵を震え上がらせる役目を持つ。 ボオルチュやチラウンも後に、と共に「四駿」と呼ばれる重臣となる。 「四駿」は戦ではチンギス・カンの傍から片時も離れず護衛する役目を持つ。 諸部族の統一 [ ] メルキトによる襲撃の後、トグリル・カンやジャムカの助けを得て勢力を盛り返したテムジンは、次第にモンゴル部の中で一目置かれる有力者となっていった。 テムジンは振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジンのもとに投ずるようになった。 テムジンはこうした人々を僚友や隷民に加え勢力を拡大するが、それとともにジャムカとの関係は冷え込んでいった。 あるとき、ジャムカの一族がテムジンの領地の馬をひそかに略奪しようとして逆に殺害される事件が起こり、テムジンとジャムカは完全に仲違いした。 ジャムカはタイチウト氏と同盟し、キヤト氏を糾合したテムジンとバルジュトの平原で会戦した。 (頃)と呼ばれるこの戦いでどちらが勝利したかは史料によって食い違うが、キヤト氏と同盟してテムジンに味方した氏族の捕虜が戦闘の後ににされて処刑されたとする記録は一致しており、テムジンが敗北したとみられる。 ジャムカはこの残酷な処刑によって人望を失い、敗れたテムジンのもとに投ずる部族が増える。 流浪していた(左)を歓待するテムジン(右) (『集史』パリ本) さらに、この戦いと同じ頃とされる、ケレイト部で内紛が起こってトグリルが王位を追われ、その兄弟ジャガ・ガンボがテムジンのもとに亡命した。 トグリルはケレイト王国を追われてからわずかな供回りとともにや、などを放浪したと伝えられるが、テムジンが強勢になっていると聞き及びこれを頼って合流してきた。 テムジンとトグリルの両者は、トグリルがテムジンの父イェスゲイと盟友の関係にあったことにちなんでここで義父子の関係を結んで同盟し、テムジンの援軍を得てトグリルはケレイトの王位に復した。 さらに両者はこの同盟から協力して中国のに背いた高原東部の有力部族タタルを討った。 この功績によりテムジンには金から「」(ジャウト・クリ Ja'ud Quri)の称号が与えられ、はっきりとした年代のわかる歴史記録に初めて登場するようになる。 また、同時にトグリルには「王」の称号が与えられ、オン・カンと称するようになったが、このことから当時のオン・カンとテムジンの間に大きな身分の格差があり、テムジンはオン・カンに対しては従属に近い形で同盟していたことが分かる。 テムジンは、同年ケレイトとともにキヤト氏集団の中の有力者であるジュルキン氏を討ち、キヤト氏を武力で統一した。 翌には高原北方のメルキト部に遠征し、にはケレイト部と共同で高原西部の方面にいたを討った。 、今度はテムジンが東部にケレイトの援軍を呼び出してモンゴル部内の宿敵タイチウト氏とジャジラト氏のジャムカを破り、続いて方面のタタルをに打ち破った。 、東方の諸部族は、反ケレイト・テムジン同盟を結び、テムジンの宿敵ジャムカを盟主に推戴した。 しかしテムジンは、同盟に加わった部に属する妻ボルテの実家から同盟結成の密報を受け取って逆に攻勢をかけ、同盟を破って東方の諸部族を服属させた。 には西方のナイマン、北方のメルキトが北西方のや東方同盟の残党と結んで大同盟を結びケレイトに攻めかかったが、テムジンとオン・カンは苦戦の末にこれを破り、高原中央部の覇権を確立した。 しかし同年、オン・カンの長男とテムジンが仲違いし、翌にオン・カンはセングンと亡命してきたジャムカの讒言に乗って突如テムジンの牧地を襲った。 テムジンはから北に逃れ、で体勢を立て直した。 同年秋、オノン川を遡って高原に舞い戻ったテムジンは、兵力を結集すると計略を用いてケレイトの本営の位置を探り、オン・カンの本隊を急襲して大勝した。 この敗戦により高原最強のケレイト部は壊滅し、高原の中央部はテムジンの手に落ちた。 帝国の建設 [ ] 1206年初春、オノン川上流での大クリルタイによって、テムジン、 チンギス・カンとして即位する。 (『』パリ本) 、テムジンは高原内に残った最後の大勢力である西方のナイマンと北方のメルキトを破り、宿敵ジャムカを遂に捕えて処刑した。 やがて南方のもテムジンの権威を認めて服属し、高原の全遊牧民はテムジン率いるモンゴル部の支配下に入った。 翌2月、テムジンはフフ・ノールに近い上流の河源地において功臣や諸部族の指導者たちを集めてを開き、九脚の白い(やの尾の毛で旗竿の先を飾った旗指物、旗鉾。 チンギス・カンという名はこのとき、イェスゲイ一族の家老という人物の息子で、モンゴルに仕えるという(巫者)がテムジンに奉った尊称である。 「 チンギス」という語彙の由来については確実なことは分かっていない。 チンギス・カンは、腹心の僚友(ノコル)に征服した遊牧民を領民として分け与え、これとオングトやコンギラトのようにチンギスと同盟して服属した諸部族の指導者を加えた領主階層を貴族(ノヤン)と呼ばれる階層に編成した。 最上級のノヤン88人は千人隊長(千戸長)という官職に任命され、その配下の遊牧民は95の千人隊(千戸)と呼ばれる集団に編成された。 また、千人隊の下には百人隊(百戸)、十人隊(十戸)が十進法に従って置かれ、それぞれの長にもノヤンたちが任命された。 テュルク・モンゴル系の騎馬軍同士の会戦(『』) 戦時においては、千人隊は1,000人、百人隊は100人、十人隊は10人の兵士を動員することのできる軍事単位として扱われ、その隊長たちは戦時にはモンゴル帝国軍の将軍となるよう定められた。 各隊の兵士は遠征においても家族と馬とを伴って移動し、一人の乗り手に対して3 - 4頭の馬がいるために常に消耗していない馬を移動の手段として利用できる態勢になっていた。 そのため、大陸における機動力は当時の世界最大級となり、爆発的な行動力をモンゴル軍に与えていたとみられる。 千人隊は高原の中央に遊牧するチンギス・カン直営の領民集団を中央として左右両翼の大集団に分けられ、左翼と右翼には高原統一の功臣ムカリとボオルチュがそれぞれの万人隊長に任命されて、統括の任を委ねられた。 このような左右両翼構造のさらに東西では、東部の大興安嶺方面にチンギスの3人の弟、、を、西部のアルタイ山脈方面にはチンギスの3人の息子、、にそれぞれの遊牧領民集団()を分与し、高原の東西に広がる広大な領土を分封した。 チンギスの築き上げたモンゴル帝国の左右対称の軍政一致構造は、モンゴルに恒常的に征服戦争を続けることを可能とし、その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定付けた。 クリルタイが開かれたときには既に、チンギスは彼の最初の征服戦であるとの戦争を起こしていた。 堅固に護られた西夏の都市の攻略に苦戦し、またに西夏との講和が成立したが、その時点までには既に西夏の支配力を減退させ、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせていた。 さらに同年にはを服属させ、経済感覚に優れたウイグル人の協力を得ることに成功する。 征服事業 [ ] 金朝への征服事業 [ ] チンギス・カン在世中の諸遠征とモンゴル帝国の拡大。 着々と帝国の建設を進めたチンギス・カンは、中国に対する遠征の準備をすすめ、にと開戦した。 三軍に分かたれたモンゴル軍は、長城を越えて長城との間の金の領土奥深くへと進軍し、金の軍隊を破って北中国を荒らした。 この戦いは、当初は西夏との戦争の際と同じような展開をたどり、モンゴル軍は野戦では勝利を収めたが、堅固な城壁に阻まれ主要な都市の攻略には失敗した。 しかし、チンギスとモンゴルの指揮官たちは中国人から攻城戦の方法を学習し、徐々に攻城戦術を身に付けていった。 この経験により、彼らはやがて戦争の歴史上で最も活躍し最も成功した都市征服者となるのである。 当時5000万人ほどいた中国の人口が、わずか30年後に行われた調査によれば約900万人ほどになってしまったという。 南部に逃げた人たちも大勢いるがその勢力の強さが伺える。 1215年、開封への遷都を責めて、モンゴル軍、中都を包囲する。 (『集史』パリ本) こうしてでの野戦での数多くの勝利と若干の都市攻略の成功の結果、チンギスはにはのはるか南まで金の領土を征服・併合していた。 翌、チンギスは金と和約を結んでいったん軍を引くが、和約の直後に金がモンゴルの攻勢を恐れて黄河の南のに首都を移した事を背信行為と咎め(あるいは口実にして)、再び金を攻撃した。 、モンゴル軍は金の従来の首都、燕京(現在の)を包囲、陥落させた。 のちに後継者オゴデイの時代に中国の行政に活躍するは、このときチンギス・カンに見出されてその側近となっている。 燕京を落としたチンギスは、将軍ムカリを燕京に残留させてその後の華北の経営と金との戦いに当たらせ、自らは高原に引き上げた。 西遼・クチュルクへの征服事業 [ ] このころ、かつてナイマン部族連合の首長を受け継いだは西走してに保護されていたが、クチュルクはそれにつけ込んで西遼最後の君主から王位を簒奪していた。 モンゴル帝国は西遼の混乱をみてクチュルクを追討しようとしたが、モンゴル軍の主力は、このときまでに西夏と金に対する継続的な遠征の10年によって疲弊していた [ ]。 そこで、チンギスは腹心の将軍ジェベに2万の軍を与えて先鋒隊として送り込み、クチュルクに当たらせた。 クチュルクはに改宗して地元の(イスラム教徒)を抑圧していたので、モンゴルの放った密偵が内乱を扇動するとたちまちその王国は分裂し、ジェベは敵国を大いに打ち破った。 クチュルクはの西で敗れ、敗走した彼はやがてモンゴルに捕えられ処刑されて、西遼の旧領はモンゴルに併合された。 この遠征の成功により、までには、モンゴル国家は西はまで拡大して、南に、西にカスピ海に達する、に接することとなった。 ホラズム・シャー朝への征服事業 [ ] 、チンギスはホラズム・シャー朝に通商使節を派遣したが、東部国境線にあるの統治者イネルチュクが欲に駆られ彼らを虐殺した(ただし、この使節自体が征服事業のための偵察・挑発部隊だった可能性を指摘する説もある)。 その報復としてチンギスは末弟テムゲ・オッチギンにモンゴル本土の留守居役を任せ、自らジョチ、オゴデイ、チャガタイ、トルイら嫡子たちを含む20万の軍隊を率いて遠征を行い、に(シルダリア川)流域に到達した。 モンゴル帝国側の主な資料にはこの時のチンギスの軍の全体の規模について、はっきりした数字は記録されていないようだが、20世紀を代表するロシアの東洋学者は、その規模を15万から20万人と推計している。 モンゴル軍は金遠征と同様に三手に分かれて中央アジアを席捲し、その中心都市、、をことごとく征服した。 モンゴル軍の侵攻はきわめて計画的に整然と進められ、抵抗した都市は見せしめに破壊された。 ホラズム・シャー朝はモンゴル軍の前に各個撃破され、までにほぼ崩壊した。 の君主スルターン・、カスピ海南東部のアーバースクーン島にて他界する。 (『集史』パリ本) ホラズム・シャー朝の君主はモンゴル軍の追撃を逃れ、はるか西方に去ったため、チンギス・カンはジェベとを追討に派遣した。 彼らの軍がを進むうちにアラーウッディーンは上の島で窮死するが、ジェベとスベエデイはそのまま西進を続け、を経て南にまで達した。 彼らの軍はや諸公など途中の諸勢力の軍を次々に打ち破り、その脅威はヨーロッパにまで伝えられた。 一方、チンギス・カン率いる本隊は、アラーウッディーンの子で・で抵抗を続けていたを追い、南下を開始した。 モンゴル軍は各地で敵軍を破り、、、、(その後二度と復興しなかった百万都市)、といった古代からの大都市をことごとく破壊、住民を虐殺した。 アフガニスタン、ホラーサーン方面での戦いはいずれも最終的には勝利したものの、苦戦を強いられる場合が多かった。 特に、ジャラールッディーンが所領のから反撃に出た直後、大断事官シギ・クトク率いる3万の軍がジャラールッディーン軍によって撃破されたことに始まり()、バーミヤーン包囲戦では司令官だったチャガタイの嫡子モエトゥゲンが流れ矢を受けて戦死し、チンギス本軍がアフガニスタン遠征中ホラーサーンに駐留していたトルイの軍では、離反した都市を攻撃中に随伴していた妹トムルンの夫で母方の従兄弟でもあるコンギラト部族のチグウ・キュレゲンが戦死するなど、要所で手痛い反撃に見舞われていた。 アフガニスタン・ホラーサーン方面では、それ以外のモンゴル帝国の征服戦争と異なり、徹底した破壊と虐殺が行なわれたが、その理由は、ホラズム・シャー朝が予定外に急速に崩壊してしまったために、その追撃戦が十分な情報収集や工作活動がない無計画なアフガニスタン・ホラーサーン侵攻につながり、このため戦況が泥沼化したことによるのではないかとする指摘も近年、モンゴル帝国史を専門とするらによって指摘されている。 チンギス・カンはジャラールッディーンをのほとりまで追い詰め撃破するが、ジャラールッディーンはインダス川を渡ってに逃げ去った。 寒冷なモンゴル高原出身のモンゴル軍は高温多湿なインドでの作戦継続を諦め、追撃を打ち切って帰路についた。 チンギスは中央アジアの北方でジェベ・スベエデイの別働隊と合流し、になってようやく帰国した。 最後の遠征 [ ] 西征から帰ったチンギスは広大になった領地を分割し、ジョチには南西から南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地を、次男チャガタイには中央アジアの西遼の故地を、三男オゴデイには西モンゴルおよびの支配権を与えた。 末子トルイにはその時点では何も与えられないが、チンギスの死後ににより本拠地モンゴル高原が与えられる事になっていた。 しかし、ハーン位の後継者には温厚な三男のオゴデイを指名していたとされる。 これより前、以前に臣下となっていた西夏の皇帝は、ホラズム遠征に対する援軍を拒否していたが、その上チンギスがイランにいる間に、金との間にモンゴルに反抗する同盟を結んでいた。 遠征から帰ってきたチンギスはこれを知り、ほとんど休む間もなく西夏に対する懲罰遠征を決意した。 1年の休息と軍隊の再編成の後、チンギスは再び戦いにとりかかった。 初め、モンゴル軍は西夏に侵攻し、西夏の諸城を次々に攻略、冬には凍結した黄河を越えて首都興慶(現在の)より南の都市霊州までも包囲した。 西夏は霊州救援のため軍を送り、黄河の岸辺でモンゴル軍を迎え撃ったが、西夏軍は30万以上を擁していたにもかかわらず敗れ、ここに西夏は事実上壊滅した。 翌、チンギスは興慶攻略に全軍の一部を残し、オゴデイを東に黄河を渡らせて・の金領を侵させた。 自らは残る部隊とともに諸都市を攻略した後、興慶を離れて南東の方向に進んだ。 『集史』によれば、との国境、すなわち方面に向かったという。 同年夏、チンギスは夏期の避暑のために本営を留め、ここで彼は西夏の降伏を受け入れたが、金から申し込まれた和平は拒否した。 ところがこのとき、チンギスは陣中で危篤に陥った。 このためモンゴル軍の本隊はモンゴルへの帰途に就いたが、西暦1227年、チンギス・カンは陣中で死去した。 『』などによると、モンゴル高原の 起輦谷へ葬られた。 これ以後大元ウルス末期まで歴代のモンゴル皇帝たちはこの起輦谷へ葬られた。 彼は死の床で西夏皇帝を捕らえて殺すよう命じ、また末子のトルイに金を完全に滅ぼす計画を言い残したという。 チンギス・カンは一代で膨張を続ける広大な帝国を作り、その死後には世界最大の領土を持つ帝国に成長する基礎が残された。 陵墓と祭祀 [ ] チンギス・カンの死後、その遺骸はモンゴル高原の故郷へと帰った。 『元史』などの記述から、チンギスと歴代のハーンたちの埋葬地はある地域にまとまって営まれたと見られているが、その位置は重要機密とされ、『』によればチンギスの遺体を運ぶ隊列を見た者は秘密保持のために全て殺されたという。 また、埋葬された後はその痕跡を消すために一千頭の馬を走らせ、一帯の地面を完全に踏み固めさせたとされる。 チンギスは死の間際、自分の死が世間に知られれば直ちに敵国が攻めてくる恐れがあると考え、自分の死を決して公表しないよう家臣達に遺言したと言われている。 チンギス・カンの祭祀は、埋葬地ではなく、生前のチンギスの宮廷だった四大でそのまま行われた。 四大オルドのは陵墓からほど遠くない場所に帳幕()としてしつらえられ、チンギス生前の四大オルドの領民がそのまま霊廟に奉仕する領民となった。 からの時代にはの称号を持つ王族が四大オルドの管理権を持ち、祭祀を主催した。 のモンゴルの騒乱で晋王は南方に逃れ、四大オルドもの屈曲部に移された。 こうして南に移った四大オルドの民は部族と呼ばれるようになり、現在はこの地方もと呼ばれる。 オルドスの人々によって保たれたチンギス・カン廟はいつしか8帳のゲルからなるようになり、八白室(ナイマン・チャガン・ゲル)と呼ばれた。 一方、チンギス・カンの遺骸が埋葬された本来の陵墓は八白室の南遷とともに完全に忘れ去られてしまい、その位置は長らく世界史上の謎とされてきた。 現在のにであるの ()との ()があるが、前者は1950年代に移動を重ねていた八白室を内モンゴルに戻して固定施設に変更して中国政府が建設したもので、後者は1940年代に当時のに建てられたものであり、この場所やその近辺にチンギスが葬られているわけではない。 が終結してモンゴルへの行き来が容易になった以降、各国の調査隊はチンギス・カンの墓探しを行い、様々な比定地を提示してきた。 しかしモンゴルでは土を掘ることを嫌う風習と民族の英雄であるチンギス・カンの神聖視される墓が外国人に発掘されることからこれに不満を持つ人が多いという。 、日本の調査隊は、モンゴルの首都であるから東へ250キロの(ケルレン川)沿いの草原地帯にあるチンギス・カンのオルド跡とみられるアウラガ遺跡の調査を行い、この地がにチンギス・カンの霊廟として用いられていたことを明らかにした。 調査隊はチンギス・カンの墳墓もこの近くにある可能性が高いと報告したが、モンゴル人の感情に配慮し、墓の捜索や発掘は行うつもりはないという。 の ()も2001年にヘンティー山脈の丘陵地において、高さ約2. 7~3. 6メートルの石積みの壁が断続的に約3. 2キロ続くを確認、『元朝秘史』にある「古連勒古(クレルグ)」に比定し、チンギス・カンはじめモンゴル王族()の陵墓である可能性が高いと示唆するが、発掘調査には至っていない。 また、中国大連在住のチンギス・カンの末裔とされる80歳の女性が「チンギス・カン陵墓が現在の四川省カンゼ・チベット族自治州にあることは、末裔一族に伝わる秘密であった」と発表し、現地調査でも証言と一致する洞窟が確認されたため、中国政府も調査を開始した。 、チンギス・カンの墳墓が周辺にあるとされるが世界遺産となった。 チンギス・カンの子孫 [ ] モンゴル帝国 モンゴル帝国のもとではチンギス・カンとその弟たちの子孫は、「黄金の氏族(アルタン・ウルク)」と呼ばれ、ノヤンと呼ばれる一般の貴族たちよりも一層上に君主として君臨する社会集団になった。 またモンゴル帝国のもとでは遊牧民に固有の男系血統原理が貫かれ、チンギス・カンの男系子孫しかカンやカアン(モンゴル皇帝)に即位することができないとする原則()が広く受け入れられるようになった。 の後半に、モンゴル帝国の西半でジョチ、チャガタイ、トルイの子孫たちは、、などの政権を形成していくが、これらの王朝でもチンギス統原理は根付き、チンギスの後裔が尊ばれた。 チンギス統原理はその後も中央ユーラシアの各地に長く残り、頃まで非チンギス裔でありながら代々ハーンを名乗った王朝はわずかな例外しか現れなかった。 外モンゴルと内モンゴルやでは、の初頭まで貴族階層のほとんどがチンギス・カンの男系子孫によって占められていたほどであり、現在もチンギス裔として記憶されている家系は非常に多い。 こうしたチンギス裔の尊崇に加え、非チンギス裔の貴族たちも代々チンギス・カン家の娘と通婚したので、チンギス裔ではなくとも多くの遊牧民は女系を通じてチンギス・カンの血を引いていた。 また、チンギスの女系子孫はジョチ・ウルスの貴族層とロシア貴族の通婚、ロシア貴族とヨーロッパ貴族の通婚を通じてヨーロッパに及んでいるという。 オクスフォード大学のY染色体調査研究 [ ] にの研究チームは、解析の結果、チンギス・カンが世界中でもっともを多く残した人物であるという結論を発表した。 この特徴を有する地域は中東から中央アジアまで広く分布し、現在までにそのを引き継いでいる人物、すなわち男系の子孫は 1600万人にのぼるとされる。 研究チームはこの特有のY染色体の拡散の原因を作った人物は、モンゴル帝国の創始者チンギス・カンであると推測しており、この解析でマーカーとされた遺伝子は、突然変異頻度に基づく分子時計の推計計算により、チンギス・カンの数世代前以内に突然変異によって生じた遺伝子である可能性が高いという仮説を発表した(、)。 この研究を主導したひとりクリス・テイラー=スミス Chris Tyler-Smith は、チンギス・カンのものと断定する根拠として、このY染色体は調査を行った地域のひとつ、やパキスタン北部のの例をあげている。 ではチンギス・カンを自らの先祖とする伝説があり、この地域はY染色体の検出が特に多かったという。 さらに、彼は東洋で比較的短期間に特定のY染色体を持つ人々が広がった根拠として、これらの地域の貴族階級では一夫多妻制が一般的であり、この婚姻習慣はある意味で、生殖戦略として優れていたためではないか、と述べている。 しかしながら、この論説に対しては批判もあり、特に者でのは、Y染色体の広範な分布について、共通の先祖を想定することには同意出来るものの、これを歴史上のある特定の人物の子孫であると特定するには正確さを欠いている、として異議を唱えている。 さらに、分布の状況と一夫多妻制が原因しているとするテイラー=スミスの見方に対しても、「あまりに短絡的かつ扇情的」であるとして非難している。 (同研究グループは同様の別の研究で、東アジアの男性約1000人のうち3. 同氏は人類の繁殖と拡大にはY染色体による男性の暴力的な性格や支配欲が密接に関係しているとする見解に立っており、チンギス・カンに対する人物評についても「チンギスハーン本人が、みずからのY染色体の野心によって突き動かされ、戦でも寝床でも、勝利することになった」という見方をしている。 だが同氏の見解のとおりだと、英国にも一定頻度で同様のY染色体キャリアがいることについて説明が出来ない、との反論がある。 ケンブリッジ サンガー研究所のアジア人起源研究 [ ] 大手遺伝子研究所であるケンブリッジ サンガー研究所のカーシム・アユブ博士 , PhD ,CAMBRIDGE らはアジア人の起源について研究していた。 アジア全域から集められた2000人以上の男性の血液サンプルを採取しDNAを抽出。 分析の結果、対象サンプルの多くがある同一の家系に属していることが判明した。 対象の8%にほぼ同一の DNAの短い配列の繰り返し が見られた。 考えられるのは彼らには同じDNAを持つ共通の祖先がいるということ。 その祖先がどの時代の人物かを割り出すと、およそ1000年前で、さらにその遺伝子の発祥地はモンゴルであることも判明した。 モンゴルで同一の遺伝子集団が多く見られたこと、また時代を考慮すると、その祖先とはチンギス・カンである可能性が高いという。 世界の3200万人がその遺伝子を引き継いでいると結論づけた。 評価 [ ] チンギス・カンが描かれたコイン このようにモンゴルの建国の英雄として称えられるチンギス・カンだが、社会主義時代のモンゴル人民共和国では侵略者として記述されることがあった。 モンゴル人民共和国は、、、、 ()、チンギス・カンの直系子孫であるモンゴル学者 ()や王侯 ()等のモンゴル民族主義者で構成されたモンゴル人民党(後に)がのの支援を受けて独立させた国家であり、建国後も常にソ連の東側陣営に属するだったが、当初は ()ら者を抱えていることから革命のためにチンギス・カンを政治的利用させた。 には ()政治局員らがチンギス・カンの生誕800周年を祝い、チンギス・カンの研究者を集めたを開いて切手も発行され、チンギス・カンの故郷とされたに記念碑が建設された。 にトゥムルオチル政治局員のライバルだった当時の首相は、とこの祝賀を機にトゥムルオチルを「民族偏向主義者」「中国寄り」であるということで追放した。 以後チンギス・カンは批判されていった。 モンゴルでの民主化が進むと、かつては栄光に彩られた自国の歴史を再認識しようとする動きが急速に強まった。 そして、新生モンゴル国ではチンギス・カンが再び称賛され、モンゴルの紙幣でもスフバートルとともにチンギス・カンの肖像が用いられ、かつてがあったモンゴル政府宮殿前には改装の際にチンギス・カンの銅像が建てられて大統領の就任宣誓が行われている。 また、でもチンギス・カンの生誕800周年はとの後押し で建設されたオルドス市の成吉思汗陵で盛大に祝われ 、チンギス・カンが死去した場所とされるの ()は保護区となっている。 占領下でとやの後押しによって建てられたウランホト市の成吉思汗廟もむしろ革命的なシンボルとして政府の資金で改修などがされており 、としてチンギス・カンの子孫 であるモンゴル族俳優のを主演に据えたテレビドラマ「」や映画が制作されてでは ()などの地名やチンギス・カンの像があり、モンゴルを訪問した際にのような中国の指導者はチンギス・カン像に頭を下げて敬意を表し 、中国国内ではチンギス・カンの肖像を踏みつけるといった行為は年少者でも民族の英雄を侮辱した罪で逮捕・を受けているが 、あくまで中国政府の主張する「の英雄」 としての崇拝が認められており、人権活動家で家のとモンゴル族の若者が集まってチンギス・カンの肖像を掲げてモンゴルの歌を放吟すると「国家分裂扇動」「スパイ活動」として逮捕・拘禁されている。 逸話 [ ]• ある日、チンギス・カンは重臣の一人であるボオルチュ・ノヤンに「男として最大の快楽は何か」と問いかけた。 ノヤンは「春の日、逞しい馬に跨り、手に鷹を据えて野原に赴き、鷹が飛鳥に一撃を加えるのを見ることであります」と答えた。 チンギスが他の将軍のボロウルにも同じことを問うと、ボロウルも同じことを答えた。 するとチンギスは「違う」と言い、「男たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その敵の妻と娘を犯すことにある」と答えた。 (『モンゴル帝国史』) 宗室 [ ] 『』チンギス・ハン紀によると、大ハトゥンと呼ばれる最上位の妃が5人いたことが述べられ、『』では大オルドを監督する4人の皇后の元に30人の妃たちが置かれていたこと述べる。 、時代の資料に準拠。 漢字表記は『』「后妃表」による。 父母兄弟 [ ]• 異母弟 『元朝秘史』ではジョチ・カサルの下にもう一人ベクテルという、ベルグテイの同母兄と思しき弟がいたが、イェスゲイ没後の貧窮時に諍いを起こし、このベクテルをテムジンはジョチ・カサルと謀って射殺したため、これを知った母ホエルンはテムジンとジョチ・カサルを憤怒して叱責したという。 この逸話は『元朝秘史』とその系統の資料にのみ現れ、『集史』『元史』『聖武親征録』など他の資料には載っていないため、ベクテルの存在そのものは疑わしいと考えられている。 一方、『』「后妃表」によると、ボルテ、クラン、イェスイ(イェスルン)、イェスゲンはそれぞれ大オルド、第二オルド、第三オルド、第四オルドを管轄していたという。 大オルド [ ]• (孛児台旭真太皇后) 部族デイ・セチェンの娘(正宮 孛剌合真皇后)• 忽魯渾皇后• 闊里桀皇后• 脱忽思皇后• 帖木倫皇后• 亦憐真八剌皇后 第二オルド [ ]• クラン(忽蘭皇后) 部族長ダイル・ウスンの娘• 哈児八真皇后• 亦乞剌真皇后• 脱忽茶児皇后• 也真妃子• 也里忽禿妃子• 察真妃子• 哈剌真妃子 第三オルド [ ]• イェスルン( 也速皇后) 部族出身。 イェスゲンの妹• 忽魯哈剌皇后• 阿失倫皇后• 禿児哈剌皇后• 察児皇后• 阿昔迷失皇后• 完者忽都皇后• 渾魯忽歹妃子• 忽魯灰妃子• 剌伯妃子• 岐国公主 皇帝・の娘 第四オルド [ ]• イェスゲン(也速干皇后) トトクリウト・タタル部族出身。 イェスルンの姉• 忽答罕皇后• 哈答皇后• 斡者忽思皇后• 燕里皇后• 禿干妃子• 完者妃子• 金蓮妃子• 完者台妃子• 奴倫妃子• 卯真妃子• 鎖郎哈妃子• 八不別及妃子 『集史』チンギス・ハン紀后妃表には5人の大ハトゥン以外の主な后妃や側室(クマ Quma)について記録されている。 ベクトゥトミシュ・フジン のジャガ・ガンボの娘での妃らの姉妹。 グルベス・ハトゥン 部族連合の首長の第一ハトゥンだった人物。 チャク・ハトゥン 皇帝の娘。 氏名不明 ナイマン出身。 ジョルチダイの母 子女 [ ] 『』ではボルテとの間に儲けた四男五女の他に男女数人を記録するが、『』では「六子」とする。 これらの多くの男子のうち、 の時代以降も存続したことが確認できるのは、ジョチ家、チャガタイ家、オゴデイ家、トルイ家、コルゲン家の5系統のみである(『集史』チンギス・ハン紀、『元史』宗室世系表ほか、『五族譜』や『高貴系譜』、『』などのモンゴル時代以降の系譜資料に基づく)。 男子 [ ]• 母 ボルテ• 母 ボルテ• 母 ボルテ• (次六 闊列堅太子) 母 クラン• チャウル 母 イェスゲン• ジョルチダイ• ウルジュカン(次五 兀魯赤、無嗣)• 氏名不明 母 タタル部族出身の側室 女子 [ ]• - 叔母であるテムルンの死後、イキレス氏のブトゥ・キュレゲンに嫁ぐ• チェチェゲン - 『元朝秘史』では 駙馬家の首長クドカ・ベキの息子イナルチに与えられたというが、『元史』『集史』ではイナルチの弟トレルチに与えられたとされる• アラガイ・ベキ - オングト 駙馬王家の首長アラクシ・テギン・クリの孫ボヤンカに嫁ぐ• トムルン - 同族であるオルクヌウト氏族でボルテの弟アルチ・ノヤンの長男チグウ・キュレゲンに嫁ぐ• アルタルン - の弟タイチュ・キュレゲンの息子チャウル・セチェンに嫁ぐ• イル・アルタイ(アル・アルトゥン) - 母不詳。 に嫁ぐ。 名前 [ ] チンギスについて [ ] 「チンギス・カン」とはテムジンが即位の際にコンゴタン氏族出身のというから与えられた称号であるが、その意味については諸説ある。 この称号を採った理由は以下のとおりである。 カンとカアンについて [ ] チンギス・カンの呼称は、歴史的に見て「チンギス・ カン」系と「チンギス・ カアン」系の2種類に大別出来る。 グユクのインノケンティウス4世宛国書。 13 - 14世紀のモンゴル帝国ではアラビア文字表記でも「カン」と「カアン」は厳然と区別されていたと見られるのである。 漢語文献での「チンギス・カン」の呼称 [ ] 後裔であるによってつけられた中国風のは太祖、は法天啓運聖武皇帝といい、元の初代として扱われる。 漢語文献では、チンギス在世中の記録として、国王の宮廷を訪れたの使者撰(の研究により著者は趙 珙と校正された)の報告書『』(頃成立)や駐留中のチンギス・カンに謁見した長春真人・の旅行記『』(頃成立)が知られているが、いずれも「成吉思皇帝」と書かれている。 南宋側の記録である『蒙韃備録』や『』(成立)でもチンギスは「成吉思皇帝」や「韃主」と呼ばれているが、「チンギス」という音写に基づく呼称は一貫して「成吉思」や「成吉思皇帝」であり、ウイグル文字、パスパ文字、アラビア文字などのような「カン」と「カアン」の書き分けは生じていない。 1266年にクビライによってチンギス・カン以来のモンゴル皇帝や皇后、やなどの主要モンゴル王族の廟号と諡号が設けられ、チンギスには廟号を太祖、諡号を聖武皇帝と贈られた。 また、12月3日に武宗カイシャンによってさらに法天啓運聖武皇帝と追諡された。 これらを受けて大元ウルスの末期に編纂された随筆『南村輟耕録』の歴代モンゴル皇帝を列記した巻第1 列聖授受正統 には「太祖應天啓運聖武皇帝 諱鐵木眞國語曰成吉思。 」と記されている。 中期モンゴル語と近現代モンゴル語の音韻 [ ] 以上のように、西方のアラビア文字圏ではイルハン朝以降もほぼ一貫して「チンギス・カン」系の表記のままであったのに対して、モンゴル高原では「チンギス・ カアン」系に呼称が遷移した。 「カン」と「カアン」という中期モンゴル語のレベルでは意味的に異なる単語が、依拠する資料で同一の仮名転写になるという弊害が生じることとなった。 「チンギス・カン」「チンギス・ハン」「チンギス・ハーン」 [ ] このため、「チンギス・ハーン」「チンギス・ハン」「チンギス・カン」と言った具合に、日本語文献での仮名転写が研究者や執筆者の間でバラバラの状態になり、混乱をきたすようになった。 主に、1980年前後から『アルタン・ハーン伝』に見られるような16 - 17世紀以降のモンゴル語文献の調査に基づく研究者の間では「チンギス・ハーン」という表記を採用する傾向にあり、一方で1990年代以降に中国で発掘された大元ウルス時代のパスパ文字モンゴル語碑文や『集史』などのモンゴル帝国時代のペルシア語文献の調査の進展によって、中期モンゴル語音韻の復元研究が進み、モンゴル帝国では「カン」と「カアン」が明確に区別されていたことが判明・認識されるようになった。 このため13 - 14世紀のモンゴル帝国時代の研究者からこれらの同時代文献資料での表現に基づいて「チンギス・カン」という表記が推奨されるようになった(両者の弁別を強く訴えている研究者としては、モンゴル帝国史・大元ウルス史の専門家であるなどが有名である。 一般に日本の戦前や現代の中国などの漢字表記では、「 成吉思汗」と書かれるが、これは「チンギス・ハン」という発音を漢字に写したものである(注釈:中国語での発音とすれば、これはチンギス・ハンである。 カンではない。 また、さらに厄介なことに、時代のでは、「皇帝」を意味する単語は han で一律表現され、中期モンゴル語や近現代モンゴル語の「カン(ハン)」「カアン(ハーン)」の対立は見られないという)。 しかしながら、現在では「チンギス・ハーン」や「チンギス・カン」が一般化しており、現在では「ジンギス・カン」はむしろまれである(なお、欧米ではモンゴル帝国時代に存在した「カン」と「カアン」の区別についての認識がまだまだ周知されていないようで、チンギスでもクビライでも Khan で一律表記される傾向にある)。 このように、13 - 14世紀のモンゴル帝国内部の中期モンゴル語やその影響にある文字表記では「チンギス・カン」と呼ばれている。 脚注 [ ] []• 己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。 (中略)壽六十六。 」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=)、ここから逆算したものである。 1, p. 1, p. 310)。 " とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。 『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(即位のまで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくの『選史』()ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」()とする。 一方、については、『』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。 他の資料の年代としては、1221年にの宮廷を訪れたの使節、の撰(の研究により著者は趙 珙と校正された)による『』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわちとする。 このようにチンギス・ハンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。 末期の編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。 我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者は丁亥年すなわちではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。 この説は『』の著者(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者など当時の学者たちの賛同を得た。 しかし、フランスの東洋学者は、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・ハンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。 『』には生年についての情報は載っていない。 ドルヂスレン・ツェー著、小澤重男 訳「チンギス・ハーンの生れたデリウン・ボルダクは何処にあるか」『遊牧社会史研究』第30号、1967年、p. 1 - 16(ドルヂスレン・ツェー著、小澤重男 訳「チンギス・ハーンの生れたデリウン・ボルダクは何処にあるか」『内陸アジア史論集』第2、内陸アジア史学会編 国書刊行会 東京、1979年、p. 71 - 86. 再録);村上正二(訳注)『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』(東洋文庫)第1巻、平凡社、1970年、p. 79 - 80. 244. (の『モンゴル帝国史』やボイル J. Boyle の『世界征服者史』の英訳 The World-Conqueror, vol. 1, p. 182. , note 11 では死去日時を「1227年8月18日」としているが、これはヒジュラ暦624年ラマダーン月4日をユリウス暦に変換すると1227年8月18日になるためとも考えられる) また、『元史』太祖本紀の太祖二十二年秋七月条に「秋七月壬午,不豫。 己丑,崩于薩里川哈老徒之行宮。 臨崩謂左右曰:「金精兵在潼關,南據連山,北限大河,難以遽破。 若假道于宋,宋、金世讎,必能許我,則下兵唐、鄧,直擣大梁。 金急,必徵兵潼關。 然以數萬之衆,千里赴援,人馬疲弊,雖至弗能戰,破之必矣。 」言訖而崩,壽六十六。 葬起輦谷。 」とある。 『元史』での不予(病を患った)となった太祖二十二年七月壬午は1227年8月18日であり、死去した同七月己丑は1227年8月25日になる。 また、ラシードゥッディーンの『集史』チンギス・ハン紀では、「亥年の秋の中月の15日、すなわち(ヒジュラ暦)624年ラマダーン月に逝去あそばされた。 1, p. 541. しかし、前者の「秋の中月の15日」という日時のとおりでは1227年9月26日になってしまい、さらに後者の「閏月」という記述を受け入れると、同年の「閏5月15日」は1227年6月30日となるため、それぞれのヒジュラ暦と中国暦との整合性が取れなくなる。 は「秋の中月の15日」は「秋の初月の15日」の誤り(すなわち「秋の初月の15日」は陰暦の7月15日なので1227年8月28日になる)と考えた。 また、「閏月」についても、中国暦ではこの年の閏月は5月の後だが、ウイグル暦では7月の後に閏月を置いたであろうとして、「ラマダーン月の14日」とは中国暦での「7月25日」、西暦での「1227年8月28日」となるだろう、と論じた(Paul Pelliot, Note on Marco Polo, vol. , Paris, 1959, pp. 305-309. また、『元史』が死去の場所としている「薩里川哈老徒之行宮」も西夏国内ではなくモンゴル高原のあたりになるため死去の地とは考え難く、恐らく葬儀が執り行われた地と解するのが妥当と考えられる。 村上正二によると、あるいは、18日に亡くなり、25日か28日には遺骸をモンゴル本土へ運び葬儀を執り行ったのでは、と論じている。 (村上正二訳註『モンゴル秘史 3』p. 274-275. この『アショーカ王物語』の伝説によれば、マハーセーナ王に鎧を身に付け手に血のかたまりを持つ息子が生まれ、やがてこの生まれた息子は全世界を支配する王者になるが、それまでに計り知れないほどの犠牲者を出すであろう、という不吉な予言を受けたと言う。 これは経典中では仏教を破る凶悪な王者の相として語られているものであるが、ペリオは『元朝秘史』にみえるこの伝承は、仏教的な凶兆としてよりは、古い仏教伝承を起源としながらもアジア内陸において世界を征する強大な王者の瑞兆として変化し流布したものであろうと推測している。 この種の「チンギス・カン鍛冶職人伝説」とも言える伝承は、13 - 14世紀に活躍した東ローマ帝国の歴史家や、同じくマムルーク朝の歴史家、のグユクの即位に列席したののの旅行記、さらにはにモンケの宮廷を訪れたの旅行記などに記録されており、13世紀中頃という早い時期から帝国の外来の人々に広く流布していたようである。 [ ]• 杉山正明、北川誠一『世界の歴史9 大モンゴルの時代』(中央公論社、1997年)94 - 95頁などを参照。 『元史』太祖本紀:太祖二十二年秋七月条「秋七月壬午,不豫。 己丑,崩于薩里川哈老徒之行宮。 (中略)壽六十六。 葬起輦谷。 Tatiana Zerjal, Yali Xue, Giorgio Bertorelle, R. Spencer Wells, Weidong Bao, Suling Zhu, Raheel Qamar, Qasim Ayub, Aisha Mohyuddin, Songbin Fu, Pu Li, Nadira Yuldasheva, Ruslan Ruzibakiev, Jiujin Xu, Qunfang Shu, Ruofu Du, Huanming Yang, Matthew E. Hurles, Elizabeth Robinson, Tudevdagva Gerelsaikhan, Bumbein Dashnyam, S. Qasim Mehdi, and Chris Tyler-Smith, "The Genetic Legacy of the Mongols", American journal of human genetics, 72- 3 , 2003. , p. 717-721. Charlotte Schubert, "Y chromosomes reveal founding father", Nature Digest, 2005, p. 6(邦題「Y 染色体は始祖を表す」)• 『アダムの呪い』(訳) ソニー・マガジンズ、2004年5月、p. 244-250• 早川智「青い血のカルテ(28)Y染色体とチンギス・ハーンの子孫」『産科と婦人科』73- 4 、2006年4月、p. 532-535• Michael Kohn 1 January 2006. Dateline Mongolia: An American Journalist in Nomad's Land. RDR Books. 35—. 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