アリス コンサート 大阪。 全国コンサートツアー「ALICE AGAIN2019

アリス=紗良・オット ピアノ・リサイタル|公演情報|音楽事務所 ジャパン・アーツ

アリス コンサート 大阪

メンバー [ ] 名前 生年月日 出身地 愛称 担当 (たにむら しんじ) 1948-12-11 (71歳) チンペイ 、 (ほりうち たかお) 1949-10-27 (70歳) ベーヤン ボーカル、ギター (やざわ とおる) 1949-02-06 (71歳) キンちゃん 来歴 [ ] 結成 [ ] のアメリカコンサートツアーで、大阪のフォークグループ「」のリーダーだった出身の谷村と、東京の「ブラウン・ライス」のだった矢沢が知り合い意気投合した。 二人は帰国したらとして一緒にグループを組もうと約束する。 バンド名の由来は当時で営業していたレストラン名で、メニューにペン字で「Alice」と書かれてあり、『このロゴがかっこいいなと思って。 プロになるんだったらAliceってバンドの名前にしたい。 』と思った事から。 帰国後谷村は、同じ神戸の音楽サークル、ポート・ジュビリーで知り合いだった、「フーリッシュ・ブラザーフッド」ので出身の堀内をに勧誘した。 12月25日、谷村と堀内で大阪市南炭屋町(現・二丁目)にある・ の一室にて、矢沢が合流することを前提に「アリス」を結成。 翌3月5日、「」で。 同年5月5日開催の奈良市民会館での公演から、矢沢が正式に合流し、晴れて現在のアリスになった。 下積みから中心的存在に [ ] プロデビュー当時はに恵まれず、メンバー三人との合計四人で運搬できる楽器として、矢沢は本来ドラマーなのに手荷物として持ち運びが可能なを持って、谷村、堀内の二本とともにツアーやライブに明け暮れる毎日だった。 しかし、「の停まる市の市民会館にはほとんど行った」(谷村)と語るほどの地道なツアー活動をすることで潜在的ファンを増やしていった。 には年間303ステージという無茶苦茶な記録が残っている。 その中には知名度向上だけを目的にしたノーギャラ・交通費事務所側負担の赤字ツアーもあったという。 この前年に所属事務所の社長がほぼ独断で、当時日本では無名だったの来日公演を決め、莫大な赤字を背負ったことから、借金返済のためにこのような無茶なツアーをさせた、という逸話も残っている。 ツアーの成果と、谷村の『』や『』のDJ、そして関西界で有名だったとのOB三人組の「」のヒットを契機に、オリジナル曲である「」「」「」「」「」「」「」等のヒット曲を連発した。 にはとして初めて3日間公演を成功させるなど、一時代を築いた。 日本武道館ではその後活動停止まで何回も公演し、他に(当時、現在の)、、といったや、大ホール、大阪といった全国の主だった音楽ホールなどを軒並みに満員にするほど、アリスは多数のファンを獲得していった。 なお武道館のコンサートでは文化放送『』で谷村の相棒を務めていたの司会で、生中継が行われた。 アリスのライブレコード『』や『』にも、を聴いているへのメッセージが収録されている。 に、の「国際児童年」の募金イベント「Hand in Hand 100円玉の大行進」に、テーマ曲として「」を提供するほか、自らも街頭で募金活動に参加した。 「Hand in Hand 100円玉の大行進」は午後1時から1時間だけの募金活動を呼び掛けたものだったが、全国で約7万3000人を動員した。 その後、谷村の提唱で、音楽ファンの募金活動による音楽ホールの建設目指す「シアター・フレンズ」プロジェクトを、、、らとコンサート会場で始めるが、諸般の事情で挫折。 当時の記録映画「ALICE THE MOVIE 美しき絆」(製作・監督)が公開されただけ に終わっている。 活動停止 [ ] しかし谷村と堀内の活動活発化とともに音楽の方向性の違いが顕在化して、にアリスの活動停止を記者発表。 ・・のツアーを含む最後の全国ツアーの後で1981年の後楽園球場にてラストライブ「アリス・ファイナル」を開催し活動停止した。 後に完全再始動をし、アリスとしてテレビ出演をした際に活動停止の真の理由について堀内が「へのやきもち(劣等感)」と語っている。 これは、アリスとして(1978年12月発売、最大のヒット曲『チャンピオン』のグループでのメイン歌唱・作詞・作曲)、他者への提供 、谷村新司ソロとして と才能をいかんなく発揮してそれぞれの形でヒットを飛ばしまくり、しかも時期がおおよそ重なったことによる。 そこで堀内から谷村に、谷村を通して矢沢に活動停止の意向が伝えられ、谷村・矢沢の両名がそれを受け入れたために活動停止に至った、とのことである。 なお、堀内が後にソロ活動で行き詰まり谷村にアリス再始動の相談を持ちかけたときにも同じようなことを言われたことがあるらしい。 事実、87年~88年に一時期再始動をした後、90年代は互いのソロ活動に専念し、1度も再始動をすることはなかった。 堀内は実質的に・に転向してソロ活動。 谷村はソロ活動を一時休止しての音楽学院に就任、後にソロ活動も再開する。 矢沢は音楽グループ「BLEND」 参加ののち音楽活動を休止し、でを中心とした飲食店と、神保町でショップを経営している。 再始動 [ ] の活動停止後、アリスは3回の限定的な再始動を経て2009年に完全に再始動した。 の1回目の再始動では、アルバム『』とシングル「」などの発表、そして数回の放送出演のみで終わった。 2回目の再始動はでの追悼コンサート開催が契機となって再始動の機運が高まったことによる。 同年8月に Alice名義から ALICE名義に変更されて再始動が記者発表され、プレビュー扱いの同年の出場の後、には1月17日の神戸国際会館でのコンサートを皮切りに『』発表のほか夏から秋にかけて全国ツアーも行われ、が再び満員になった。 3回目の再始動は12月31日の出場だった。 完全再始動とその後の活動 [ ]• 発売の谷村のベスト盤「音帰し(おんがえし)」に「」が収録され、堀内と矢沢もレコーディングに参加したことで再始動の機運が高まった。 に 上野文化会館大ホールで記者会見、3人がを迎えるこのタイミングで 28年ぶりの完全再始動を発表。 同年からにかけて全国ツアーを33会場で全35公演開催することを発表した。 その後に決定した追加公演を含め最終的に36会場40公演を行っている。 さらに、にでも公演を行い、休憩をはさんで5時間におよぶライブとなった。 には『』を制作すると共に、47都道府県ライブツアーの敢行。 、メンバー全員が70歳となるこの年、「70歳の限りなき挑戦」と銘打ち、の神戸での公演を皮切りに全国ツアーを行う。 2020年2月7・8日の大阪城ホール2daysをもって無事ツアー完走。 また、ツアーに先駆けて2018年よりの三人でのレギュラー放送も開始。 ツアー終了後の放送にて番組を継続する旨を表明。 エピソード [ ] 主に谷村と堀内がヴォーカルを担当するが 、メイン・シンガーがどちらかということもなく(ツイン・ヴォーカル)、ともにほぼ対等の立場だった。 鳴かず飛ばずの下積み時代が長かったが、「」で大し、当時黎明期だった界の中心的存在のひとつと見なされるようになる。 ただその落差の大きさから、地方局のなどに出演した際には「大ヒット『冬の稲妻』で デビューした今話題のグループ、アリスです」(ジョークを含めた谷村談)などと紹介されていた。 無名の活動開始時期は、自他ともにのジャンルに分類されるというポジションだったが、ドラムスが加わっているという点で、同時期のミュージシャンとの差別化を狙っていた。 「冬の稲妻」でブレイク後は、フォークの枠にとらわれることなく独自の世界を展開し、ファンを次第に獲得していった。 曲調は次第にロック寄りになり、バックミュージシャンも、エレキギター、シンセサイザーなどを従え本格的バンド編成となり派手なステージ活動を展開していた。 このように結成時のフォーク・シンガーの路線の枠からは完全にはみ出ていたアリスだったが、1981年の休止ライブでは原点に戻り、コーラスもバックミュージシャンもない、3人だけでの演奏を行った。 全盛期は『NHK紅白歌合戦』に出場しなかった。 これは、アリスとしての番組オーディションに応募したが落選した経緯があるため、「意地として断っていた」とのことである。 海外公演でに行った際、「日本で今一番売れているアーティスト」というフレコミで観客7万人のフェスティバルコンサートに出演。 演奏を行ったものの観客は静まり返ってしまい、ヤケクソで「アミーゴ! 」「ビバ! 」と叫びながら走り回ったら観客は多いに沸いたという。 脚注 [ ] []• 大阪市一丁目にある高級ホテル・とは無関係。 大阪帝国ホテルの現在のオーナーはである。 この時期はではなくで短期間だが毎週土曜日夜にこの「ハンド・イン・ハンド」にまつわるレギュラー番組があった。 「チャンピオン」の約2週間前に発売、の代表曲となり谷村本人をはじめ多くの歌手に歌い継がれている『』の作詞・作曲• 、谷村のソロの代表曲である『』のソロ歌唱・作詞・作曲• もメンバーだった。 日刊スポーツ 2012年8月16日閲覧• 2019年3月29日閲覧• 矢沢もアルバム曲などでは歌っている• 谷村が作曲の場合は谷村メイン、堀内の場合は堀内メインというパターンが多かった。 ただし、代表曲『チャンピオン』など谷村作曲の場合は二人で歌うことが多い。 この場合谷村が作曲を行っており、かつリードヴォーカルということもあり、やや谷村がメインに寄ることが多かった• 主に非オフィシャルなもの• 「冬の稲妻」「ジョニーの子守唄」「チャンピオン」のメドレー• 「狂った果実」「遠くで汽笛を聞きながら」のメドレー 外部リンク [ ]• (公認サイト)• - ツアー情報なども掲載• - 、、専用公式サイト•

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アリス コンサートツアー2013『It's a Time』3回目/大阪フェスティバルホール

アリス コンサート 大阪

5月3日の神奈川でのゲネプロを入れて3回目のアリスのLIVE! 今日も言う事なしの最高のLIVEでした! セットリストは変わりなしでした。 昨日は初日の高揚からかいろいろライブならではのハプニングもありましたが、 今日は安定感も増してMCのまとまりも出来てきてました。 MCに関してはまとまってるにこした事はないけど、たまにはハチャメチャに なるのもかなりアリだと思います^^ 今日は4列目のかなり下手席でした。 真ん前はスピーカー!顔面に爆音を浴びる席です。 よく、ちんぺいさんが「スピーカーの前の人は終わったらざんばら髪になる」とか 「キャベツみたいな顔になって帰って行く」とか言ってたあの席です^^ でも気持ち良かった!爆音をダイレクトに感じられて久々の空気の揺れを まともに感じられました。 70年代後半〜80年代のアリスに比べたら出音は小さくなってると思いますが、 やっぱりライブバンド!アリス!の音は最高です! またまた思い出したのですが・・・ 1978年12月24日の座席から観た3人の並びと同じでした。 1階A列14番から観てたのですが・・・・ この14番というのが一番下手端のポツンと2席あった席です。 ここに姉と二人座って観ました。 やっぱり間口は前のフェスよりかなり狭くなってると思う。 1列目の最下手からベーやんはもっと遠かった。 でも並びで見える雰囲気は1978年12月24日に観た光景とだぶった。 あの時のクリスマスコンサートはきんちゃんのコーナで、出したばかりの 初のソロアルバムから「サウンド・オブ・スプリング-いつか幸せが」を 歌ってくれました。 その時にパンダと犬とクマのヌイグルミが出て来てアリスの3人と 手をつないできんちゃんの曲で踊ってました^^; 石膏でできたような豪華なペガサスが出て来たのもこの時のライブ。 A列なのにS席ではなくA席なのは、あの頃はあまりにも端の席はA席になってた事も よくありました。 S席が取れなくてガッカリだったけど1列目でラッキーだった事を 覚えてます。 その2ヶ月前に枚方市民会館で「アリス 秋のコンサート」を観て、 さらにその1ヶ月前にはばんばひろみふさんとアリスのジョイントコンサートを 大阪厚生年金会館で見ました。 枚方市民会館は1400人ほどしか収容できない小さめのホールで聴いて参加した 「10000人の讃歌」は凄く感動した。 「そ列」・・・「あいうえお」順かと思いきや「いろはにほへと」順・・・。 この「そ列」は「あいうえお」でも「いろはに」でもほとんど変わらない^^; 劇的に前とか後ろとは関係のない「そ」でした。 武道館ライブから「最後のアンコール」「センチメンタルブルース」 「走っておいで恋人よ」「カリフォルニアにあこがれて」「さらば青春の時」を 抜いて「街路樹は知っていた」を加えた構成でした。 得なのか・・・損なのか・・・得ではないやろ^^; でも、小さいホールに凄いエネルギーが溢れた事をはっきり覚えてます。 ------------------ここからネタバレ----------------------------------- 何度も書くけど・・・やっぱり「生きているから」が聴けるのが最高にうれしい! 今日も「生きているから」は最高すぎました! オリジナルとはキーも違うし歌い方も違うけど、今のアリスの「生きているから」 を聴けてるのが本当にうれしい。 スタジオ盤でのベーやんはファルセットに近い声でかなり高いキーで歌ってます。 1975年の「生きているから」はあのベーやんの歌唱が最高なのですが、 2013年の「生きているから」は今のベーやんの歌唱が最高にかっこいい! アレンジも新たに2コーラス目あとの間奏は大幅に変えてあったりして最高! アウトロのスキャットも入れてほしかったけど、それ以上は望むまい^^; そしてニューアルバムからの8曲!! 1曲目「It's a Time」 2曲目「Western Dream」 7曲目「Boys be」 8曲目「READY LADY」 9曲目「Voyager」 12曲目「冷たいレシピ」 18曲目「ユズリハ」 ラスト曲「Wonderful Day」 ニューアルバムからの曲はどれも歌唱、演奏、アレンジとも素晴らしい! アップテンポ曲は2コーラス目をカットしてたりしますが、 ライブではいいんじゃないかと思います。 そりゃフルコーラスで聴きたいけど、 曲数を多くしたい気持ちと新曲を1曲でも多く聴いてほしい気持ちが ビシバシ伝わってくるので問題なし。 フルコーラスを聴くのは、ほぼライブレコーディングと言っても過言じゃない 「ALICE XI」で聴けばいい。 14曲目「誰もいない」 今日、聴いてて思い出したのですが、この曲の手拍子っていつからだろ? 1974年 1975年 1976年 1977年の頃には誰も手拍子はしてなかったと思う。 1973年5月1日日本武道館での「ラブ・ジェネレーション」に出演した時に 「愛の光」と「誰もいない」がライブアルバムとなって収録されてるけど この時も誰も手拍子はしていない。 あの大ヒットしたライブアルバム「栄光への脱出〜武道館ライブ」が リリースされて「冬の稲妻」「涙の誓い」「ジョニーの子守唄」などの 一連の大ヒット曲でアリスを好きになった人が初めて「栄光への脱出〜武道館ライブ」でアリスのライブを聴いたり、あの日武道館に行ったりして 平常心ではない高揚しまくりのあのライブの印象が強くなったのだと思う。 平常心でなかった理由その1 チンペイさんがこの年の4月に倒れて声を出してはいけないと 担当医に言われコンサートを5ヶ月も休んでいました。 そしてこの武道館が復帰第一弾のライブだった事。 平常心でなかった理由その2 アリスが初めて武道館でワンマンライブを行う事と 日本人初の記録を創り上げた事。 立て続けにヒット曲を出し、ベーやんは「君のひとみは10000ボルト」を 大ヒットさせ、時代がアリスに染まりつつあった時。 だからあの時はどの曲でも手拍子が入ったんだと思います。 そしてそれがアリスのライブのバイブルのようになっている。 あの平常心じゃなかったライブがバイブルのようになってるのは 仕方ない事だと思うけど・・・ 現に武道館から2ヶ月後の枚方では手拍子はなかったと記憶してる。 武道館ライブが発売されて20日後の枚方公演だったのでギリギリこの辺りが 手拍子ありなしの境い目になってるような気がする。 1981年11月7日後楽園スタジアムでの3人だけのライブもさらに平常心で 聴けるわけのないライブ。 この時のライブ盤もバイブルのようになってる所がある。 「走っておいで恋人よ」の最後を叫ぶのは確実にあの時だけ。 それがウケてしまい、後の再始動でも普通に最後は叫ぶ事になってしまってます。 ライブ盤での影響は大きいんだと思い知らされる。 75年,76年あたりにミディアム〜ミディアムアップテンポの曲で 手拍子が入ってたのは「あなたのために」「好きじゃないってさ」の2曲かな。 この2曲は歌詞的にも手拍子が合う曲です。 「青春時代」にしても「1978年武道館ライブ」から手拍子が起きたと思う。 1974年セカンドライブを聴いたらわかるように誰も手拍子していません。 「走っておいで恋人よ」に関しては3人でリコーダーを吹くアレンジにした時から。 1980年の後半からかな・・・ 1978年武道館ライブでも手拍子はまだ誰もしていなかった。 「誰もいない」「走っておいで恋人よ」に関してはノリやその日の雰囲気で 手拍子が起きてもそれはそれで楽しいかとは思うけど「帰らざる日々」の 手拍子に関してはやっぱりまだ違和感ありまくりです。 自分が最初にこの曲を生で聴いたのは1976年9月5日神戸国際会館。 この時、ちんぺいさんは確か 「どう受け取っても構わない。 自分が楽しい曲だと思えばそう聴けばいい。 悲しい曲だと思えばそう聴けばいい」 こんな感じの事を「帰らざる日々」を歌う前に語ったと思う。 歌詞を聴いてどんな状況なのかは容易に頭に浮かぶはず。 たとえば「今から人を殺します」って曲があったとして、リズムが あんな感じなら手拍子するんだろうな。 最後、舞台が真っ赤な照明になって「Bye Bye Bye Bye Bye Bye Bye Bye Bye」 ってテンポが早くなっていく所は怖いを通り越して滑稽に思えてきてしまう。 「さあ!さあ!早く死んでね!」って手拍子で煽ってるようにしか聞こえない。 それで涙を流していようものならもっと笑えてしまう。 最後「ジャーン」って終わって起きる拍手が「死んで良かったね」って 言ってるようにも聞こえる^^; いつもチンペイさんの歌う歌詞を聴いてるのと、その日その日で チンペイさんの強弱やニュアンスが違うので聴き入ってるけど、 如何せん、手拍子で細かいニュアンスとか聞こえなかったりするのは残念。 でも、受け取り方や自分の乗り方は自由だと思う。 自分はこの曲で手拍子はおかしいと思うからしないだけ。 楽しい曲だと思ってる人はいないと思うけど、リズムが出て来ると 自然に手拍子してしまうのも分かる^^; でも、歌詞聴いたら変だと思うんだけど。 これは無理だろうなぁ。 この手拍子が伝統のようになってるから。 中島みゆきさんのライブで「わかれうた」で手拍子が入るのも変だといつも 思ってる。 日本人はどうしても 「ブンチャッ ブンチャッ ブンチャッ ブンチャッ」ってリズムが出て来ると 勝手に手が動くのかも。 自分も歌詞を聴いてなければ手拍子してるかも^^ 「わかれうた」も表打ち、裏打ちバラバラで手拍子入ると、 どんなハードロックの手拍子をしてるんだ?状態になるから笑えてしまう。 今日は終演後にみんなで居酒屋に入って3時間近く呑んでたのと、 帰ってきてから友人にもらった生樽酒の冷酒をちびちび呑んでたから ちょい愚痴ぽくなってしまいました^^ もうアリスが活動してくれてるなら何でもアリでいいです^^v さあ、アリスは少しお預けです。 9日は既に違うチケットを買ってしまってて 泣く泣く大阪追加公演は諦めたけど、6月1日びわ湖ホールからまたまた アリス三昧です。 ちなみに9日は梅田芸術劇場で月組公演「ME AND MY GIRL」を観劇。

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アリス コンサートツアー2013『It's a Time』3回目/大阪フェスティバルホール

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メンバー [ ] 名前 生年月日 出身地 愛称 担当 (たにむら しんじ) 1948-12-11 (71歳) チンペイ 、 (ほりうち たかお) 1949-10-27 (70歳) ベーヤン ボーカル、ギター (やざわ とおる) 1949-02-06 (71歳) キンちゃん 来歴 [ ] 結成 [ ] のアメリカコンサートツアーで、大阪のフォークグループ「」のリーダーだった出身の谷村と、東京の「ブラウン・ライス」のだった矢沢が知り合い意気投合した。 二人は帰国したらとして一緒にグループを組もうと約束する。 バンド名の由来は当時で営業していたレストラン名で、メニューにペン字で「Alice」と書かれてあり、『このロゴがかっこいいなと思って。 プロになるんだったらAliceってバンドの名前にしたい。 』と思った事から。 帰国後谷村は、同じ神戸の音楽サークル、ポート・ジュビリーで知り合いだった、「フーリッシュ・ブラザーフッド」ので出身の堀内をに勧誘した。 12月25日、谷村と堀内で大阪市南炭屋町(現・二丁目)にある・ の一室にて、矢沢が合流することを前提に「アリス」を結成。 翌3月5日、「」で。 同年5月5日開催の奈良市民会館での公演から、矢沢が正式に合流し、晴れて現在のアリスになった。 下積みから中心的存在に [ ] プロデビュー当時はに恵まれず、メンバー三人との合計四人で運搬できる楽器として、矢沢は本来ドラマーなのに手荷物として持ち運びが可能なを持って、谷村、堀内の二本とともにツアーやライブに明け暮れる毎日だった。 しかし、「の停まる市の市民会館にはほとんど行った」(谷村)と語るほどの地道なツアー活動をすることで潜在的ファンを増やしていった。 には年間303ステージという無茶苦茶な記録が残っている。 その中には知名度向上だけを目的にしたノーギャラ・交通費事務所側負担の赤字ツアーもあったという。 この前年に所属事務所の社長がほぼ独断で、当時日本では無名だったの来日公演を決め、莫大な赤字を背負ったことから、借金返済のためにこのような無茶なツアーをさせた、という逸話も残っている。 ツアーの成果と、谷村の『』や『』のDJ、そして関西界で有名だったとのOB三人組の「」のヒットを契機に、オリジナル曲である「」「」「」「」「」「」「」等のヒット曲を連発した。 にはとして初めて3日間公演を成功させるなど、一時代を築いた。 日本武道館ではその後活動停止まで何回も公演し、他に(当時、現在の)、、といったや、大ホール、大阪といった全国の主だった音楽ホールなどを軒並みに満員にするほど、アリスは多数のファンを獲得していった。 なお武道館のコンサートでは文化放送『』で谷村の相棒を務めていたの司会で、生中継が行われた。 アリスのライブレコード『』や『』にも、を聴いているへのメッセージが収録されている。 に、の「国際児童年」の募金イベント「Hand in Hand 100円玉の大行進」に、テーマ曲として「」を提供するほか、自らも街頭で募金活動に参加した。 「Hand in Hand 100円玉の大行進」は午後1時から1時間だけの募金活動を呼び掛けたものだったが、全国で約7万3000人を動員した。 その後、谷村の提唱で、音楽ファンの募金活動による音楽ホールの建設目指す「シアター・フレンズ」プロジェクトを、、、らとコンサート会場で始めるが、諸般の事情で挫折。 当時の記録映画「ALICE THE MOVIE 美しき絆」(製作・監督)が公開されただけ に終わっている。 活動停止 [ ] しかし谷村と堀内の活動活発化とともに音楽の方向性の違いが顕在化して、にアリスの活動停止を記者発表。 ・・のツアーを含む最後の全国ツアーの後で1981年の後楽園球場にてラストライブ「アリス・ファイナル」を開催し活動停止した。 後に完全再始動をし、アリスとしてテレビ出演をした際に活動停止の真の理由について堀内が「へのやきもち(劣等感)」と語っている。 これは、アリスとして(1978年12月発売、最大のヒット曲『チャンピオン』のグループでのメイン歌唱・作詞・作曲)、他者への提供 、谷村新司ソロとして と才能をいかんなく発揮してそれぞれの形でヒットを飛ばしまくり、しかも時期がおおよそ重なったことによる。 そこで堀内から谷村に、谷村を通して矢沢に活動停止の意向が伝えられ、谷村・矢沢の両名がそれを受け入れたために活動停止に至った、とのことである。 なお、堀内が後にソロ活動で行き詰まり谷村にアリス再始動の相談を持ちかけたときにも同じようなことを言われたことがあるらしい。 事実、87年~88年に一時期再始動をした後、90年代は互いのソロ活動に専念し、1度も再始動をすることはなかった。 堀内は実質的に・に転向してソロ活動。 谷村はソロ活動を一時休止しての音楽学院に就任、後にソロ活動も再開する。 矢沢は音楽グループ「BLEND」 参加ののち音楽活動を休止し、でを中心とした飲食店と、神保町でショップを経営している。 再始動 [ ] の活動停止後、アリスは3回の限定的な再始動を経て2009年に完全に再始動した。 の1回目の再始動では、アルバム『』とシングル「」などの発表、そして数回の放送出演のみで終わった。 2回目の再始動はでの追悼コンサート開催が契機となって再始動の機運が高まったことによる。 同年8月に Alice名義から ALICE名義に変更されて再始動が記者発表され、プレビュー扱いの同年の出場の後、には1月17日の神戸国際会館でのコンサートを皮切りに『』発表のほか夏から秋にかけて全国ツアーも行われ、が再び満員になった。 3回目の再始動は12月31日の出場だった。 完全再始動とその後の活動 [ ]• 発売の谷村のベスト盤「音帰し(おんがえし)」に「」が収録され、堀内と矢沢もレコーディングに参加したことで再始動の機運が高まった。 に 上野文化会館大ホールで記者会見、3人がを迎えるこのタイミングで 28年ぶりの完全再始動を発表。 同年からにかけて全国ツアーを33会場で全35公演開催することを発表した。 その後に決定した追加公演を含め最終的に36会場40公演を行っている。 さらに、にでも公演を行い、休憩をはさんで5時間におよぶライブとなった。 には『』を制作すると共に、47都道府県ライブツアーの敢行。 、メンバー全員が70歳となるこの年、「70歳の限りなき挑戦」と銘打ち、の神戸での公演を皮切りに全国ツアーを行う。 2020年2月7・8日の大阪城ホール2daysをもって無事ツアー完走。 また、ツアーに先駆けて2018年よりの三人でのレギュラー放送も開始。 ツアー終了後の放送にて番組を継続する旨を表明。 エピソード [ ] 主に谷村と堀内がヴォーカルを担当するが 、メイン・シンガーがどちらかということもなく(ツイン・ヴォーカル)、ともにほぼ対等の立場だった。 鳴かず飛ばずの下積み時代が長かったが、「」で大し、当時黎明期だった界の中心的存在のひとつと見なされるようになる。 ただその落差の大きさから、地方局のなどに出演した際には「大ヒット『冬の稲妻』で デビューした今話題のグループ、アリスです」(ジョークを含めた谷村談)などと紹介されていた。 無名の活動開始時期は、自他ともにのジャンルに分類されるというポジションだったが、ドラムスが加わっているという点で、同時期のミュージシャンとの差別化を狙っていた。 「冬の稲妻」でブレイク後は、フォークの枠にとらわれることなく独自の世界を展開し、ファンを次第に獲得していった。 曲調は次第にロック寄りになり、バックミュージシャンも、エレキギター、シンセサイザーなどを従え本格的バンド編成となり派手なステージ活動を展開していた。 このように結成時のフォーク・シンガーの路線の枠からは完全にはみ出ていたアリスだったが、1981年の休止ライブでは原点に戻り、コーラスもバックミュージシャンもない、3人だけでの演奏を行った。 全盛期は『NHK紅白歌合戦』に出場しなかった。 これは、アリスとしての番組オーディションに応募したが落選した経緯があるため、「意地として断っていた」とのことである。 海外公演でに行った際、「日本で今一番売れているアーティスト」というフレコミで観客7万人のフェスティバルコンサートに出演。 演奏を行ったものの観客は静まり返ってしまい、ヤケクソで「アミーゴ! 」「ビバ! 」と叫びながら走り回ったら観客は多いに沸いたという。 脚注 [ ] []• 大阪市一丁目にある高級ホテル・とは無関係。 大阪帝国ホテルの現在のオーナーはである。 この時期はではなくで短期間だが毎週土曜日夜にこの「ハンド・イン・ハンド」にまつわるレギュラー番組があった。 「チャンピオン」の約2週間前に発売、の代表曲となり谷村本人をはじめ多くの歌手に歌い継がれている『』の作詞・作曲• 、谷村のソロの代表曲である『』のソロ歌唱・作詞・作曲• もメンバーだった。 日刊スポーツ 2012年8月16日閲覧• 2019年3月29日閲覧• 矢沢もアルバム曲などでは歌っている• 谷村が作曲の場合は谷村メイン、堀内の場合は堀内メインというパターンが多かった。 ただし、代表曲『チャンピオン』など谷村作曲の場合は二人で歌うことが多い。 この場合谷村が作曲を行っており、かつリードヴォーカルということもあり、やや谷村がメインに寄ることが多かった• 主に非オフィシャルなもの• 「冬の稲妻」「ジョニーの子守唄」「チャンピオン」のメドレー• 「狂った果実」「遠くで汽笛を聞きながら」のメドレー 外部リンク [ ]• (公認サイト)• - ツアー情報なども掲載• - 、、専用公式サイト•

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