佐野元春 桑田佳祐。 佐野元春が語る「先輩」はっぴいえんど、「同級生」桑田佳祐への思い

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佐野元春 桑田佳祐

佐野元春 やっぱ、自分が一番長い間ファンを続けているのが 「佐野 元春」である。 最初に聞いたのが 「SOMEDAY」そしてすぐにベスト版にあたる「NoDamage」であった、とにかく今まで聴いた音楽とは異なる世界がそこにあった。 はじけるビート、飛び跳ねるシャウト、力強いロックンロールの世界がそこにある。 当時サザンオールスターズの桑田佳祐が近い音作りをしていたがやっぱり佐野元春の世界が自分にマッチしていた。 いつも自分のとなりには佐野元春がいてくれた。 いつも勇気づけてくれたアーティストである。 元春は先駆者である、ありとあらゆることに可能性を見いだしそれを実現していったアーティストである。 (悪い言い方をするとマネしぃともいえないことはないけど。。。 ) もぉかれこれ17年を越えて聞いてきているが、最近はなんかパットしないなぁ。 やっぱ伊藤銀次といっしょにやってた頃の曲が好きだな。 夜のスウィンガー• ビートでジャンプ• 情けない週末• プリーズ・ドント・テル・ミー・ア・ライ• グッドタイムス&バッドタイムス• アンジェリーナ• さよならベイブ• バッドガール• バック・トゥ・ザ・ストリート• ドゥ・ホワット・ユー・ライク(勝手にしなよ) 1980年に発表された記念すべきデビューアルバム。 飛び跳ねるような躍動感あふれたアルバムである。 今聴いても全然古く感じない音はやっぱすごい。 特にアンジェリーナはやはり名曲である。 1991年に発表された「Slow Songs」のアンジェリーナも必聴である。 ガラスのジェネレーション• ナイトライフ• バルセロナの夜• イッツ・オールライト• 悲しきレイデオ• グッド・バイブレーション• 君をさがしている(朝が来るまで)• INTERLUDE• ハートビート (小さなカサノバと街のナイチンゲールのバラッド) 個人的には一番好きなアルバム。 「彼女」やアルバムタイトル曲である「Heart Beat」のバラードは逸品である。 また対照的に元春の代表曲のひとつ「ガラスのジェネレーション」も色あせていない。 個人的には情熱的な「君をさがしている」が趣味だなぁ。 シュガータイム• ハッピー・マン• ダウンタウンボーイ• 二人のバースデイ• 麗しのドンナ・アンナ• サムデイ• アイム・イン・ブルー• 真夜中に清めて• ヴァニティ・ファクトリー• ロックンロールナイト• サンチャイルドは僕の友達 完成度が高い名アルバム。 この一枚は日本のポップス、ロックを愛する人たちには必ず聴いてもらいたいアルバムですね。 タイトル曲「SOMEDAY」は日本ロック史を代表する一曲。 個人的にはこれまた情熱的な「ロックンロールナイト」は素晴らしいの一言につきますね。 その後一拍おいて「サンチャイルド・・・」いいねぇ。 そうそう、「アイム・イン・ブルー」「ヴァニティ・ファクトリー」ってあの沢田研二に提供してたって知ってる?アルバム「G. S I LOVE YOU」に収録されています。 スターダスト・キッズ• ガラスのジェネレーション• サムデイ• モリソンは朝、空港で• イッツ・オールライト• ハッピーマン• グッドバイからはじめよう• アンジェリーナ• ソー・ヤング• シュガータイム• 彼女はデリケート• こんな素敵な日には(On The Special Day)• 情けない週末• バイバイ・ハンディラブ 元春自身が選んだ半ベスト版。 「ロックンロールナイト」や「ダウンタウンボーイ」がないのはちょっと残念ですが、元春を知るには一番いい一枚。 大瀧詠一と杉真理とのコラブレーションアルバム「ナイアガラトライアングル vol2」からの一曲「彼女はデリケート」や「グッドバイからはじめよう」はやっぱいいわ。 そうそう、「彼女はデリケート」も沢田研二歌ってます。 コンプリケーション・シェイクダウン• トゥナイト• ワイルド・オン・ザ・ストリート• ブルーな日曜の朝• VISITORS(訪問者たち )• 君を汚したのは誰• カムシャイニング• ニューエイジ このアルバムはデビュー以来長年共にしてくれた(育ててくれた?メジャーになるきっかけを作ってれた?)伊藤銀次がバンドから離れ、ニューヨークに音楽修行に出かけた後発表されたアルバム。 いままでのスタイルをきっぱりすてた挑戦的なアルバムです。 当初は「トゥナイト」しかグッ!っとくるものなかったけれど、聴き続けると味わいが出てくるアルバムです。 カフェ・ボヘミア Introduction• ワイルド・ハーツ-(冒険者たち )• シーズン・イン・ザ・サン(夏草の誘い )• カフェ・ボヘミアのテーマ• ストレンジ・デイズ(奇妙な日々)• 月と専制君主• ヤングブラッズ• 虹を追いかけて• インディビジュアリスト• 99ブルース• カフェ・ボヘミア InterLude• クリスマス・タイム・イン・ブルー (聖なる夜に口笛吹いて )• カフェ・ボヘミア Reprise 従来元春ってアルバムが出てからシングルカットしてたってのが多いんですけど、このアルバムに限ってはシングルを立て続けに4曲出してそれをベースにアルバムを完成させたアルバムだったと記憶しています。 前作「Visitors」と曲調がこれまたことなって英国風の曲作りですね。 個人的には「スタイルカウンシル」にかなり影響されたんじゃないかって思ってます。 「クリスマス・タイム・イン・ブルー」は季節になると聴きたくなる名曲です。 決して全てのアルバムリストではありません。 内容は充実!!.

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佐野元春と爆笑問題 桑田佳祐とサザンオールスターズを語る

佐野元春 桑田佳祐

1980年に「アンジェリーナ」でデビューして以来、音楽と言葉の交点で独自のたたかいを展開してきた佐野元春が、禅語にインスピレーションを受けたという新作アルバム『MANIJU』をリリースした。 インディペンデントレーベル「DaisyMusic」を経営しつつ、作品とライヴ活動とによって言葉を音楽に、音楽を言葉に載せてロックし(=揺さぶり)つづけてきたヒーローを、編集長の鈴木正文がインタビューした。 12歳のときの少年・佐野元春にまでさかのぼって、佐野元春が時代と自身と、そして言葉と音楽をひっくるめた「革新」の歩みについて語った。 聞き手・鈴木正文(GQ) 構成・今尾直樹 写真・森川 昇 ヘアメイク・吉川清海(エル マーゴ) "新作『MANIJU』と、それがはじまったところ" 『マニジュ』とは? GQ:2年ぶりのアルバム『マニジュ』がリリースされました。 「マニジュ」というのは聞きなれない言葉ですが……。 佐野:そもそもの話をすると、1980年代、僕は米国、おもに東海岸にいたんですけど、サンフランシスコも好きで、ときおり遊びに行くこともありました。 そこには60年代から「禅センター」なるものがあって、アップルの創業者のひとりであるスティーヴ・ジョブズとか50年代末のビート・ジェネレーションの中心人物だったジャック・ケルアックだとかが出入りしていた。 ビート・ジェネレーションに興味があった僕がその話を知ったのは15、16歳の頃で、実際に行ってみようと思って行ったのが26歳ぐらいのときです。 GQ:佐野さんが15〜16歳というと70年代前半、カルロス・カスタネダとかフラワー・チルドレンとかが脚光を浴びていたまさにその頃ですね。 禅センターはそういうムーヴメントも含むカウンター・カルチュア運動の担い手たちに影響を与えた、と。 佐野:そうです。 自分が多感な頃に聴いた音楽は60年代末〜70年代前半のロック・ミュージックで、東洋的なものの考え方に立ったリリック(叙情詩、歌詞)も流行ってましたから、それを逆輸入するかたちで触れていた。 僕はその頃から禅に興味をもっていたけれど、禅というのはすでに自分のなかにあるものなんです。 GQ:といいますと? 佐野:あるがまま、ということですね。 どこかにコアとなるものがあって、その中心から領土を広げていくというのではなく、中心はもたずに、領土を広げることなく、ありのままにそこに存在する、といった精神でしょうか。 ものの本を読めば読むほど、禅というのは、別にことさらな勉強も哲学もする必要はなくて、自分の生活のなかにある精神のことをいうのかな、と受け止めてます。 GQ:禅問答みたいですね。 佐野:そうですね(笑)。 GQ:で、「マニジュ」とは? 佐野:禅語のひとつで、自分の言葉で解釈すると、誰の心のなかにもある、誰にも渡すことのできない価値のあるもの、そしてその価値は本人が一番よく知っている、というそういうものをサンスクリット語で「マニ」と呼んでいる。 GQ:では、ジュは? 佐野:珠です。 ということで「マニジュ」はマニというものを物体化したもの、と解釈しています。 その人にとってのお守りのようなもの、護符であるともいえます。 GQ:なるほど。 15歳の頃からひかれていた禅の精神、「マニジュ」をいま、白日の下にさらした。 なにか理由はあるんですか? 佐野:ソング・ライターとして35年、いろいろな曲を書いてきましたけれども、年齢を経て自分を客観的に見ることができるようになり、そこから詩をつむぐようになった。 こういうテーマで曲を披露しても、ようやく大丈夫という自信が出てきた感じですかね。 GQ:しかし、佐野さんはもともと自分の言葉で自分の音楽世界をつくってきた。 佐野:ソング・ライティングというのは、自分にとっては、自分を知る作業でした。 自分てなんだろうというのは時々、折にふれて思うことですけれどもよくわからない。 詩を書いて、とにかく言葉として吐き出して、それを読んで、あ、自分はこんなことを感じているのか、と知る……。 GQ:そういう自己探求の歌が共鳴も呼んでいった。 佐野:われわれは、いってみれば言葉の音楽化ということをつねにやっている。 そして、その反対の、音楽の言葉化という作業もやっている。 ひとつの言葉でも、ビートとハーモニーを加えて、いかにその言葉のもっているもの以上のものを相手に届けていくか、そしてそういうことが可能なのか、そういう実験を絶え間なくやってきた、という感じです。 GQ:12歳、1967年ですね。 ロックですか? 佐野:フォーク・ロックですね。 ミディアム・アップテンポの。 もう悦に入ってました。 これでやっていけるんじゃないか、って(笑)。 音楽雑誌の、欧米のロック・バンドのギタリストがギターを抱えながら高くジャンプしている写真をじっと見て、これだ、と思いました。 GQ:誰の写真ですか? 佐野:ピート・タウンゼントです。 GQ:その頃、ミュージシャンになろうという、ありきたりじゃないコースにいこうと自覚的に思ったというのは、時代なんですかね。 佐野:僕は、時代もあったと思います。 僕より上の世代だと全共闘世代。 街は彼らが剥がしたアスファルトだらけ。 あとに残された僕らの世代はどうすればいいんですかって。 GQ:僕は剥がしていたほうですから。 佐野:わかってます(笑)。 15歳、つまり高校生になると、ソング・ライティングも、自覚的にやっていました。 その頃は、世の中が一旦ぶっ壊れちゃったあとで、奇妙な自由があったんですね。 勤めなきゃいけないとか、誰かに従わなきゃいけないとか、というようなことはまったくない。 世の中、どっちにいってもいいんだなと。 自分は演奏もできるし、曲も書けるし、うたえるから、ロック・ミュージックをやろうという感じでしょうか。 GQ:佐野さんに先行する世代、たとえば大瀧詠一さんとかについては……。 佐野:はっぴいえんどですね。 僕は、はっぴいえんどを教師としても、反面教師としても見ていた。 GQ:批判的だったんですか? 佐野:一部批判的でした。 それは下の弟がひとつ上の兄貴を批判するのと同じ気持ちです。 はっぴいえんどは、もちろん好んで聴いていましたし、同時代の日本語を使ったロック・ミュージックのなかでは一番自分のなかでフィットした。 ただ、どうも知的すぎる。 ロック・ミュージックのもつ肉体性みたいなものをどこに置き去りにしているんですか、と若い僕にはそこが不満だった。 GQ:どこが知的すぎたんですか。 佐野:まず、松本隆さんが書かれる詩が口語でもなく、文末が「です」とか「ます」とか、日本の近代詩にメロディとビートとハーモニーをつけた作品のように僕には思えた。 結局、言葉とビートと曲とハーモニー、それぞれに境界線があるように僕には思えた。 僕がやりたかったのは、言葉とビート、ハーモニーに境がないようなシームレスな表現だった。 はっぴいえんどの音楽はとても優れていて、知的に聴けば非常に楽しい。 だけど、バカになって聴くと楽しめない。 すなわち肉体性が置き去りにされている。 僕がロックン・ロールに求めたのはもっと無に近いもの。 われらが世代 GQ:その頃のフォーク・ロック、たとえば、吉田拓郎、井上陽水は……? 佐野:僕より上の世代のソング・ライターたちの書く曲は、どれも自分の魂を燃え上がらせるものではなかったです、生意気にも。 GQ:なにゆえ? 佐野:どこがというのではなく、個人的な感覚として、ですね。 上の世代の詩曲には、僕が求める官能とユーモアがない、僕が新しい表現をしていくんだ、という生意気な態度がありました。 GQ:そんな佐野さんに近い人は日本にいました? 佐野:いや、いなかったです。 仲間がいたら、どんなにうれしかったか。 共感した人はいました。 たとえば、同じ世代の桑田佳祐。 GQ:桑田佳祐とはなにが違うんですか。 違うことは明らかですけれども。 佐野:彼には肉体性もユーモアもある。 そして、3分間という限られたポップ・ソングのなかで、できる限り情報を盛り込みたいという情熱も感じた。 僕は、3分間のなかで伝えられる情報量を格段に増やしたかったんです。 そのためには1音に1語ではなくて、2語、3語入れる。 ときにはリエゾンしたり、はしょったりしていく。 言葉にシンコペーションをもたせていく。 ですから、8ビートに16ビートを足して、つねにフックしていく歌い方、言葉の使い方、ようするにビートのなかで、いかに上の世代とは違うやり方で言葉を転がしていくかということをはじめたのが1980年でした。 で、桑田佳祐は同じ世代で、彼がやりたいこと、彼のバックグラウンドもよ〜く僕はわかっていて、面白いことをやっているなあと思った。 でも僕の言葉の載せ方とは違った。 彼がやっていたのは、日本の伝統に則った都々逸とか南京玉すだれとかの延長にあるようなやり方だった。 GQ:なるほど。 わかるような気がします。 佐野:でも、桑田佳祐の素晴らしいところ、優れているところは、そこに批評性を盛り込んでいる。 そこはかとない世間に対する批評性がある。 そこは僕と同じ世代だなあという見方はしていた。 けれども、言葉の転がし方は彼とは違うアプローチを僕はしている。 そしてできたのが、デビュー曲の「アンジェリーナ」だったりするんですね。 GQ:都々逸は参考にならなかった? 佐野:はい。 僕は東京・神田生まれで、おばあちゃんが長唄の先生で三味線をやってまして。 ですので、学校から帰ると2階から三味線の音が聴こえてきた。 でも、長唄というのは本当に、子どもの頃、なんて退屈なんだと思った。 GQ:無調性音楽みたいな……。 言葉の壁を越える GQ:職業的な作詞家、作曲家、そして演奏家となって、それが1980年で、それから時代の風雲児になっていった。 その時代にはなにを考えていましたか? 佐野:日本語によるポップ音楽を更新したい、と思っていました。 真に日本語による、上の世代の人たちにも認めてもらえる、表現としての日本のロック音楽をどうにかできないか。 同時代の文学や建築や舞踏や、ほかのアート表現と肩を並べられるものを、ということをずっと思っていました。 僕を含め、僕より下の世代、新しいアーティストたちがどんどん出てきて、それまでの歌謡芸能的な音楽からひとつ更新した新しい波が押し寄せているのに、おとなたちはなぜ気づいてくれないんだろう、と不満でした。 GQ:佐野さんはロック的な音楽的感性を、日本語の世界で暮らしていながら抵抗なく受容できた世代だったと思いますが、世界とのあいだに横たわる言語的な障壁をどう乗り越えて普遍的な共感を得るか、という問題についてはお考えになっていましたか? 佐野:はい。 80年代中盤以降になると、自分たちを含め、新世代の表現者たちはドメスティックな表現とはまた別に、ユニバーサルな表現の軸をもつべきだと。 さんもそれに気づいてニューヨークに行きましたし、僕は坂本さんより下の世代ですけど、ユニバーサルな軸をもって表現活動をやっていくということに自覚的でした。 なので僕は1983年にニューヨークに行って、活動の場を丸ごとアメリカに移した。 そこから創作をゼロからやり直しました。 それから言葉の問題ですけれども、ダンス・ビートで、言葉、日本語を音楽的に機能させるというアプローチだったら欧米の人たちも逆に面白がってくれる、ということに気づいた。 なので、ニューヨーク滞在中に自分が制作した『VISITORS』というアルバムは、ジャンルでいえばダンス音楽を軸に、言葉をビートのなかでうまくワークしていくようにデザインしていく、というアプローチをやっていました。 ストーリーをまったくなくしたわけではない。 というのは日本で待ってくれているファンもたくさんいましたから、彼らも楽しんでくれるようにつくらなきゃいけない。 その折衷的なところでつくったのが『VISITORS』でした。 そのなかの「COMPLICATION SHAKEDOWN(コンプリケーション・シェイクダウン)」という曲は、「つかの間の自由をビートにまかせて転がり続けな」という、まさに禅的な有り様をうたった詩ですけれども、それをヒップホップ、ラップ的な解釈で言葉をワークさせる。 そうすると、言葉の意味性よりも、それぞれの日本語がもっている躍動感とか韻律が最初に聴き手に伝わるので、日本人であってもアメリカ人であっても、それなりに楽しいと思ってくれる。 言葉の壁を越えるキーワードとして、あの時代、僕が思ったのはダンスだと。 GQ:ヒップホップはなにが面白かったんですか。 佐野:当時はストリート・レベルでヒップホップ、ラップのムーブメントが炸裂していました。 そこにドイツ、フランスなど、世界のあちこちから自分と同じ24〜25歳の若い連中がマンハッタンに集まってきたんです。 で、ヒップホップというムーブメントにみんな飲み込まれる格好で、自分の国の言葉で表現しようとしていた。 僕も東アジアからアート運動に参加していたという思いがありました。 で、競い合う中で、日本語だから欧米人たちとコミュニケーションは難しいとは考えていなかった。 何語であろうと、音楽のなかに言葉がうまく機能していればOKだと、おおらかな気持ちで楽しくやっていた。 ヒップホップはそのように多様な文化を受け入れる懐の深さがあって、そこが面白かった。 ロンドン時代 GQ:そういうニューヨーク時代というものがあって、80年代の狂躁から素面になっていく時代が来たなかで、東京に戻る。 その頃はどんなことを考えてました? 佐野:その次はヨーロッパ、ロンドンに半年以上滞在してアルバム制作をします。 マンハッタンの音楽とまた違う、ヨーロッパの伝統的な音楽がロンドンにはあって、その周辺の人たちとレコードをつくりました。 『VISITORS』が伝統を破るものだとしたら、今度は伝統にもう一度たち戻るという、そういうレコーディングをやりました。 GQ:ロンドンはロンドンで、階級的な違いが文化的に変えがたいものとしてあって、その壁を打ち破るには、それこそロック魂が必要だった、と思うんですけれども……。 佐野:おっしゃる通りです。 GQ:アイリッシュ・ロックとか、抑圧されたものの強烈さを、肌で感じましたか。 佐野:もちろん感じました。 自分はミュージシャンですし、現場に入れば、あ、この音楽はこういう意味をもっていたのか、こういう抵抗の歴史があったのかということはよくわかります。 だから、このバンドの音楽はこういう表現をとっているんだなというのは、必然としてわかってくる。 それはそれで楽しい経験でした。 また、ニューヨークと較べてみると、英国音楽は英国音楽でぜんぜん違う。 英国、というかヨーロッパのポピュラー音楽のほうが奥行きが深い。 簡単にいうと、米国のポップ・ロック音楽が道具のようにプラグマティックだとしたら、ヨーロッパの音楽、ポップ・ロックは、もっと装飾的、美的な感じがあって、そこがぜんぜん違う。 GQ:ああ、なるほど。 佐野:往々にしてヨーロッパの人たちが音楽に求めるものはビューティ、美ですね。 詩のつくりも、表現しようとしていることも(アメリカとは)ぜんぜん違う。 ロンドンでの生活、作業を通じて、60〜70年代の英国の音楽の意味がよりわかった気がしました。 GQ:音楽的な美を、現代的な舞台装置で追求する試みのなかで再理解した、と。 佐野:その通りです。 ヨーロッパの音楽のほうが懐が深いと思ったひとつとして、たとえば英国ではシアターの文化がポップ音楽のなかに入っていたりする。 ですので、オペラの様式とロック音楽がミクスチャーする例もある。 たとえばは「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」で演劇的な要素をアルバムに取り入れた。 ザ・フー、ザ・キンクスなども、ロック・オペラというくくりでコンセプチュアルなアルバムをつくっている。 GQ:ニューヨークのマジソン・スクウェア・ガーデンではそうはいかないと。 佐野:いかない。 GQ:アポロ・シアターはどうですか? 佐野:アポロ・シアターは黒人音楽のメッカで、教会的な場所だ。 白人のロックン・ロール音楽は「私が、私が」と自己を主張する音楽ですけれども、アポロ・シアターで展開している音楽は「私たちは」というブラザーズ、シスターズのコミュティの音楽ですね。 GQ:シェイクスピア以来のロンドンの芝居の劇場が音に文化的な厚みを加えている。 佐野:そう。 ロックで表現できることはとても広い、深い、ということをさらに感じました。 GQ:グラム・ロックも含めて? 佐野:が70年代に行っていたことも非常に演劇的です。 彼の1枚目、2枚目のアルバムもロック・オペラといっていい。 ヨーロッパに行って腑に落ちました。 たとえばグラム・ロックの連中は男なのに女装する。 10代の僕にはよくわからなかった。 でも、ヨーロッパに行けば、すぐわかる。 ふたたび、『マニジュ』 GQ:で、イッキに時代は現在、『マニジュ』のところに飛びますが、現在地点における音楽、ソング・ライティングというものを、あえてひとことでいうとしたら、どう定義しますか。 佐野:振り返ってみれば、僕は1980年にデビューしてますから、もう35年以上日本の音楽シーンにかかわっている。 「素晴らしいな」と思うのは、サウンドをデザインする人々、リリックに取り組んでいるソングライター、みんなものすごいスピードでアップデートして、よくなっている。 よい方向に更新しつつある。 新しい世代が言葉と格闘し、ビートと格闘し、なにかゴキゲンな、ゴキゲンでクールな表現を自分が編み出していくんだという活動を、絶え間なく続けてきている。 それは自分がこの年齢になったので見える景色です。 自分がデビューした1980年当時の音楽は、それまでの古い形式に縛られたままで面白くなかった。 しかし35年経った現在、新しい世代がやっている音楽表現を見て、「いいな」と思うものもある。 そう思えることがすごくうれしい。 自分も同じことをやってきたから。 変ないい方になるけど、弟とか妹が自分と同じ課題に向かい合って頑張っている様子を見ると、すごく愛おしい。 だから応援したい。 GQ:将棋の藤井聡太4段じゃないですけど、若い才能に乗り越えてほしいとか、そういうのってあるんですか。 佐野:音楽の場合には年齢を経ているとか若いとかということはあまり重要な要素じゃない。 僕が若い世代の表現者たちとセッションして「いいな」と思うのは、いかにクリエイティブにスパークできるかというところがわれわれの価値観であり、ゴキゲンなアイディアを出したヤツがエライ、年齢は関係ないよというところ。 なので、僕を乗り越えていってほしいとか、そういう考えはないんです。 GQ:音楽にもAI、人工知能が入ってきていると思います。 小説とか文学的詩とかでも、人間の書くものはいらなくなるとか、そういう脅威を肌身に感じたりしますか。 佐野:僕も新世代だったら、あらゆるデジタル・ツールを駆使して、上の世代に一泡吹かせたい、と思うでしょうね。 そういう自分もいるんだけれども、一方で、ソング・ライティングというのは、自分にとって神秘なんです。 なぜこの言葉とこのメロディーとビートがかけ合わさると、こんなイメージが創出されるのだろう、という神秘体験をつねにしている。 その神秘の体験をしている自分は、なにか合理では解決できない、人生にかかわる重大な作業をしているのではないか。 その個人的な神秘体験、そこに横たわる心地よさ、その不可解なプロセス、それらはまずAIからは得られないのではないか、と思う。 創作というのは、アーティストたちが、不可解な現実を、表現をもってでどうにか乗り越えようとするレジスタンスであり、その悪戦苦闘のプロセスこそがアート、アート的な行為なのだと僕は思いたい。 それが商業的に成功する、しないと言う話は大した関心ではない。 長年、表現に携わってきて、いま思うのはそういうことです。 『マニジュ』 2017年7月19日に、佐野元春&ザ・コヨーテバンドが新作アルバム『マニジュ』をリリース。 特別編集盤では、本編CDのほかに、バンドの写真やレコーディングの風景を掲載した100ページにおよぶアートブックや、ミュージック・ビデオを収録したDVD、そしてポストカード&ピンナップをから「元春レイディオ・ショー特別盤」(CD)まで封入される。 1980年にシングル「アンジェリーナ」でデビュー。 アルバム『SOMEDAY』、『VISITORS』など話題作多数。 2004年に音楽レーベル「DaisyMusic」を設立。 2015年にデビュー35周年を迎えた。 ALL RIGHTS RESERVED. gqjapan. gqjapan. jp","requestIp":"185. 100. socialNetworks. socialNetworks. socialNetworks. socialNetworks. socialNetworks. gqjapan. analytics. analytics. analytics. relatedSites. relatedSites. relatedSites. relatedSites. sharingLinks. sharingLinks. sharingLinks. gqmagazine. socialNetworks. socialNetworks. facebook. socialNetworks.

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毎年恒例!桑田佳祐が2015年邦楽ベスト10を発表 3位佐野元春、2位JUJU、1位は?

佐野元春 桑田佳祐

にシングル「」でデビュー。 概要 [ ] 1980年3月21日、シングル「」で歌手デビュー。 詩人としてのメッセージを内包した歌詞、多様なリズムとアレンジ、やなどの新しい手法を実践。 また、作品に敬意を払ったうえで「」をに書き下ろした事もあり 、名実通りさまざまなジャンルの音楽を折衷させた曲を数多く発表して作品の商業的ヒットに関係なく高い評価を得ている。 現在は独立系レーベル「」を主宰し、を通じた音楽活動などでも先駆的な試みを続けている。 経歴 [ ] この節には、過剰にが含まれているおそれがあります。 内容の増大は歓迎されません。 をで検討しています。 ( 2013年7月) デビュー以前 [ ] 生まれ(出身はのに近い下町 )。 当時の家族構成は本人、両親、妹が一人。 父は会社の経営者で、母は元女優で青山のレコード喫茶店のマスター。 少年時代は漫画家に憧れ、のアトリエを訪れたり、自身が描いた漫画を雑誌に投稿しようとしたこともあったが、徹夜で書いた漫画を母に破り捨てられたことがきっかけで、急速に漫画から音楽に関心が移っていく。 中野区立第四中学校入学前後に、友人からトランジスタ・ラジオをもらい、HOT100系のポップスや系のロックに傾倒。 中学1年の夏にののギター姿に憧れ、のちにアルバイトで資金を貯めてギターを購入。 この時期に詩にもはまり、やなど愛読。 中学2年の初夏にの「赤いブナの木」にメロディを付けたものが初の自作曲になる。 立教高等学校(現・)1年の夏にを知り、強い影響を受ける。 ディランが影響を受けた文学を探っているうちにを知り、ビート・ジェネレーションに傾倒。 15の時の3大ヒーローはボブ・ディラン、、ジャック・ケルアックだったという。 高校2年になってようやく音楽部に入部、ピアノを始める。 この頃、吉祥寺の「ジョージ組」なるバイク集団に所属 、この時期に無謀運転で2回交通事故を起こしている。 高校3年の7月、実家の引っ越しに同行せず一人暮らしを始め、夏休みに横浜で出会ったモダン・ダンサーに強い影響を受ける。 同年12月、音楽部が母体のバンド「バックレイン元春セクション」を結成。 結成当時は5人編成だったが、まもなく同級生の妹であるが加入し、6人編成になる。 なお、学生時代に制作された楽曲のいくつかは プロになってから正式に発表されている。 1974年4月にに入学。 バックレイン元春セクションの活動は続き、初夏にに応募する際にホーンセクションが4人加入。 ボーカル・ピアノ(佐野)、キーボード(MANNA)、ツインギター、ドラム、ベース、ホーンセクションという10人編成の大所帯バンドになる。 ポプコンでは「Bye Bye C-Boy」を歌いらを抑えて関東・甲信越地区代表になるが10月の本選会では無冠で、同時にバンドの維持が不可能になったために解散(一説には主催者を誹謗する発言をしたためにノミネートから外されたと言われている)。 同年11月にの学園祭のミニコンサートに出演した時にと知り会い、彼女にボブ・ディランを聞かせるなどの音楽的教育を施す。 この時期に全くの別メンバーでバックレイン元春セクションを再度立ち上げようとしたが、にドラムとベースを引き抜かれた ことをきっかけに自然消滅し、翌1975年冬からは佐藤と共に音楽活動を始める。 同年末に佐藤が大学主催の女性シンガーソングライターのコンテストに出場した際に「鋼渡り」という曲を共作し、翌1976年3月に優秀賞を受賞。 同年秋に佐藤のデビューが決まってからは自身の音楽活動の他、佐藤の裏方としてプロデュース・マネージメント活動を行う。 1977年、佐藤奈々子のアルバム『Funny Walkin'』、『Sweet Swingin'』にも参加。 この時期、佐藤の所属事務所の代表小坂ペン(夫人)の紹介で小坂忠と知り合い、CM音楽の録音、のテレビライプでのコーラス、「」の録音(キーボードで参加)などを手伝う。 1978年に当時使用していたスタジオのエンジニアの薦めで再びヤマハポピュラーソングコンテストに出場。 「Do What You Like-勝手にしなよ」を歌い、関東・甲信越地区代表になり、5月の本選会では優秀曲賞を受賞。 同年秋に生活費・学費を稼ぐために入社、間もなくのラジオ番組の制作担当になる。 1979年に立教大学を卒業し、この時期からのプロデューサーから熱烈な勧誘を受け始める。 同年秋、真野のラジオのためのアメリカ取材旅行の直後に制作担当から外されて間もなく退社。 この時期に小坂の勧誘を受諾してデビューが決まる。 同年末に小坂の紹介でフォーク・ニューミュージック系の芸能事務所と契約。 ヤングジャパン初のロック・ミュージシャンとなる。 デビュー直後 [ ] 1980年2月からレコーディングに入り、そこでと知り合う。 同年3月21日にシングル「」()でデビュー。 同年4月7日から始まった音楽番組『』()のレギュラーに抜擢される(デビュー後の初ライブはこの番組で、ホールにて収録)。 同年4月21日にアルバム『』を発表。 6月から横浜舶来屋で定期的に、7月からルイードで月一で『ファイティング80's』のバックバンドとともにライブを始める。 8月にマネージャーが交代したことを機に、ヤングジャパン所属ミュージシャンの前座(、、など)の仕事が増える。 10月6日のワンマン・コンサート(横浜教育会館)の打ち合わせの際にバックバンドの名前を「THE HEARTLAND」に決定。 同年末にプロデューサーの元同僚からの依頼でのアルバム『』に楽曲提供したことを皮切りに他ミュージシャンへの楽曲提供も幅広く行うようになる。 1981年4月から『』()の月曜日担当になり、同番組の枠で『元春レイディオショー』を開始。 同年6月にシングル「」を発表。 同時期に伊藤を通じて交流を始めることとなるに引き上げられ、大瀧のプロジェクト「ナイアガラ・トライアングル」にとともに参加。 3人の所属レーベル・事務所(大瀧と杉はレーベルのみ一緒)が違い、関係者間の調整が長引くことを嫌がった大瀧は7月24日の杉のイベントライブ(ゲスト:大瀧、友情出演:佐野)のステージ上で、ファンに『』の制作をゲリラ的に発表し、既成事実を作って関係者間の調整を縮めるという力技を使った。 自らのアルバムと『』のレコーディングを並行して制作、大瀧から多くのことをインプットしながら自作にアウトプットしていった。 同年11月には大瀧の「ヘッドフォンコンサート」(渋谷公会堂)に参加、ナイアガラファンクラブのハワイ旅行にも参加するなど、ナイアガラとの交流を深めた。 初期三部作の完成と方向転換 [ ] 『』『』と2枚のアルバムを発表していたが、なかなかセールスには結びつかなかった。 しかしラジオDJとして、あるいはライブパフォーマンスの凄いロックミュージシャンとして、大瀧詠一のお薦めミュージシャンとして、徐々にファンが付くようになり、そのファン達が自主的に会場を押さえてそこでライブを行う などファンに支えられながら、背水の陣(これで売れなかったら最後だ)と自分の全てを投じたアルバム『』を1982年5月に発表。 にを迎え、並みのウォール・オブ・サウンドを導入したことで、シングルでは注目されていなかった「SOMEDAY」が注目を浴びるようになり、アルバム『』はで最高位4位を記録。 ホールクラスで行われた同ツアーは軒並みソールドアウトを記録。 このツアーを観たやは感銘を受けたと後に語っている。 ツアーの最終公演である東京・のステージで、行きを発表。 渡米直前に編集盤『』がオリコンで1位を記録し、佐野元春ブームが起きる中で同年5月に渡米。 この時期に事務所のヤングジャパンが解散しており 、 80年代の音楽業界はこれからどんどん変わっていくだろうと見越し、音楽ビジネスに関する知識を付けて、近い将来自分でメディアを持ち、音楽業界をミュージシャン側から変えていくための下準備としての渡米であり [ ]、プロデューサーやマネージャーの仕事(アルバムのレコーディングの手配やスケジュール管理など)を全て自ら行った。 またを雇い、音楽ビジネスについて一から学んだとしている。 渡米直前の『新譜ジャーナル』のインタビューでは「ニューヨークに行くことに目的はない。 同時代の世界中のアーティストと同じ呼吸をしたい」「ニューヨークにいる期間は未定です。 ヴァイブレーションが合えばいますし、合わなければすぐに帰ってきます」と述べている。 ニューヨークで生活をしながらシーンのミュージシャンやの映像作家などと交遊関係を築き、現地のミュージシャンとともにを取り入れながらもそれを換骨奪胎した「新しいサウンド」で新曲をレコーディングし、アルバム『』を製作。 完成の達成感からか帰国してからも長い間状態に悩まされたという。 4月にアルバム『VISITORS』の先行シングルとして「」を7インチ・シングル盤と12インチ・シングル盤で同時発売し、売上で12インチ・シングル盤が上回った。 これ以後、邦楽における12インチ・シングル盤がブームとなった。 同年5月にアルバム『VISITORS』を発表し、翌6月に帰国。 数曲でラップを取り入れたことや、前作までのナイアガラ系に通じるサウンドから一変したことで、賛否両論が巻き起こったもののオリコンで1位を記録する。 メジャーレーベル系ミュージシャンとしては初のとして扱われることもある。 また「」のPVは前衛の映像作家が担当するものの、ラディカルすぎるという判断で20年近く お蔵入りすることになった。 また、全国70カ所におよぶコンサートツアー『VISITORS TOUR '84〜'85』では、の影響でTVモニターを何十台も積み重ねて不規則な映像を流すなど、なステージを展開。 コンサートの形態にも新たな試みを取り入れた。 同年、の「」を Holland Rose 名義で作曲した。 初のトップ10ヒット『Young Bloods』 [ ] 2月にのテーマ曲として「」を発表。 佐野自身初のトップ10ヒットとなり、同曲の印税はアフリカ難民救済のチャリティーとして寄付された。 同年に行われた「」にも出演。 5月にはエレクトリックサウンドにのせた自作詩の朗読()と詩集・写真集・ストリートアートなどが複合的にミックスされた作品『ELECTRIC GARDEN』をから発表。 収録曲「」は3分弱に編集されシングルカットされた。 作品がシングルになるのは珍しい。 続く7月には、に日本代表として参加。 『M's Factory』の設立 [ ] 、それまで培ってきた音楽制作やビジネスのノウハウを元にして自由な表現フィールドを獲得するために、自身によるプライベート 「M's Factory」を立ち上げる。 責任編集の季刊誌「THIS」をより発刊するなど多岐にわたるメディア活動を展開。 またライブ活動においても、東京・で月に一度のペースで定期ライブを行う「Tokyo Monthly」を開催。 チケット申し込みの電話回線がパンクする事件がおきるほどの人気を博す。 ちょうど次作アルバムの制作中ということもあり、レコーディング前の未発表曲を演奏するなどのアクションも頻繁に行われた。 UKムーブメントへの接近 [ ] には、先に発表されていた「Young Bloods」「」を含むアルバム『』を発売。 アルバムに先駆けてシングル発売され、チャートトップ10入りを果たしていた「」「」なども収録。 やを旅しながら作られた楽曲群は、、、、などの多彩なリズムが採り入れられている。 これは当時イギリスでムーブメントとなっていた、やの音楽をUKポップ音楽に融合させたなどのアプローチであり、この流れを主導していたの、を起用している。 ストレートなロックンロールから、複雑なによるダンスサウンド、ソウルフルな演奏が披露され、THE HEARTLANDの演奏力が確立することになる。 9月に初の単独スタジアムライブがで行われ、この日の演奏を収録したライブアルバム「」(オリコン1位を記録)が発表された。 この頃、国内で大きな議論となっていたについて自身のラジオ番組「AJIスーパーミクスチャー」で特集を組む予定が、地方局からクレームが来て頓挫。 急遽シングル「」を発表。 一方、同番組内で、M'sFactoryのレーベルの主催者として、自身の偽名ユニット「ブルーベルズ」やTHE HEARTLANDの別名義のバンド、インディペンデントで活躍するアーティストのも開始。 最終的には『mf Various Artists Vol. 1』としてまとめ、1989年8月に発売となった。 、次作のアルバム制作をスタート。 初期段階ではTHE HEARTLANDとのレコーディング作業を重ね、ラディカルなロックサウンドが最終形に近い形で完成していった。 しかし、より明快かつポップなサウンドを求め、それまでのセッションを白紙に戻して単身渡英。 などを手がけたプロデューサーであるを陣頭指揮とし、、アトラクションズ、等、UK周辺のミュージシャンとレコーディングセッションを開始する。 こうしたセッションを経て、先行シングルとなった「」や、「」、「ジュジュ」などを収録したアルバム『』が完成。 6月にリリースされる。 サウンド面では、伝統的なUKロックと、オリエンタリズムが融合。 60年代のF-Beatサウンド的な疾走感をもつタイトル曲から始まり、アフリカンビートやスキッフル、シャッフル、ロックンロールといった様々なリズムが取り入れられている。 詩においてはそれまでの英語やカタカナ語でビートにアクセントをつけていく、いわゆる「佐野元春文体」とは一線を画すものとなっている。 啓示的な内容をもつを元に、カタカナ語を廃し、語数も少ない。 抽象的かつ象徴的な言葉の組み合わせによってイメージを聞き手に喚起させる手法は、佐野元春の作品におけるひとつのターニングポイントとなった。 本作のプロモーションツアーである「ナポレオンフィッシュ・ツアー」を6月から12月まで決行。 ステージ背景には荒涼とした砂漠の写真が映し出され、そうした映像を背にして、これまでのキャリアの中でもっとも攻撃的な演奏を展開した。 二度目となる横浜スタジアムでのライブを間に挟み、年末まで続けられた本ツアーの最終公演のステージ背景には「Good by 80's, so don't look back」と記されていた。 デビューから10年目となったには今までのシングル曲とカップリング曲一部を収録した「」を5月に発売。 』を11月にリリースした。 アルバムタイトルが示すとおり、過去作品に見られる大上段から振りかざすような音楽のダイナミズムは一旦休憩となり、全面アナログレコーディングと、少数編成のバンドサウンドを核とした素朴な音作りの曲が並んだ。 詩も「街に暮らす少年少女」が成長した様子を平易な言葉を選んで描きながらも、時代が狂乱のあとで疲弊していく様子を見つめながら「家に帰ろう」(収録曲「空よりも高く」より)と歌う。 『』のプロモーションツアーの最終公演であるでは、ステージにと子息のが登場。 ジョン・レノンの生誕50周年を記念したイベント『グリーニング・オブ・ザ・ワールド』(G・O・W)の趣旨に賛同して、佐野が作詞作曲し、三人でレコーディングした「エイジアン・フラワーズ」をステージで披露した。 なお、で開催された『グリーニング・オブ・ザ・ワールド』でも共演を果たしている。 1991年、過去のの再アレンジも含めたアルバム『』発売。 その一方で、佐野本人が「空白の一年」と呼ぶように、この時期はしばらく音楽活動から離れている。 また、同年の10月には自身の父が他界している。 その後、新作レコーディングをスタートする前に、ノンプロモーショナルな全国ツアーとして「See Far Miles Tour PartI」を1992年1月から4月まで決行。 オーディエンスとのを通じて、創作的な悩みやスランプを断ち切ったという。 『Sweet16』、『The Circle』 [ ] には、2年ぶりのオリジナルアルバム『Sweet16』を発売。 このアルバムはの優秀アルバム賞を受賞した。 また『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』に収録の「」がドラマ「」の主題歌に選ばれたことから、カップリングに「Sweet16」を伴って再リリース、オリコン4位を記録。 急遽、「VISITORS」以降「約束の橋」を含む『』もリリースされる。 『Sweet16』を携えての全国ツアー「See Far Miles Tour PartII」が9月から翌年1月まで行われた。 さらに11月には、佐野元春としては異例の短いインターバルでアルバム『The Circle』がリリースされる。 これは前作『Sweet16』と、音楽的にも感情的にも表裏一体となるもので、や、色が色濃い作品となっている。 なお、収録曲「レインガール」はのに起用され、佐野自身もCMに登場した。 シングル「」はのCMソングに使用された。 THE HEARTLANDの解散 [ ] 12月から4月まで「The Circle Tour」が行われる。 このツアーに先立ち、1993年10月には東京・で突然のシークレットライブを決行。 その後も学園祭でのライブや「」でのステージアクトをこなすなど、さまざまな規模のライブ活動が行われた。 このツアー中の4月、バンドの解散が発表された。 同年9月に解散ライブ「Land Ho! 」を、所縁の地である横浜スタジアムで行う。 同年10月に自身の母ががんで亡くなる。 3月、バンド解散後の初めて、に出演。 には時代の本格到来に先駆けて国内初のアーティスト公式「」を開設。 ファン有志によって作られたこのWebサイトは、オフィシャル・ファンサイトとして、現在もボランティアスタッフにより運営されている。 には、新しいバンドやアーティストとのコラボレーション活動も積極的に展開している。 8月には佐野が主催するロック・イベント「THIS! 」を東京・で開催。 1996年からまで3回開催されたこのイベントは、優秀な新人のショーケース・ライブとして、、、、など後に第一線で活躍することになるミュージシャン・バンドが多数出演した。 また、トリビュートアルバムブームの先駆けとも言うべき佐野のトリビュートアルバム『BORDER』が発売された。 これは佐藤奈々子が企画したもので、彼女の呼びかけに応えた、、、、らが参加。 それぞれ佐野楽曲の新解釈を披露している。 The Hobo King Bandの結成 [ ] 新作のレコーディング作業を続けていたこの時期、レコーディングセッションを通じて集まったメンバーによる新バンド「INTERNATIONAL HOBO KING BAND」(その後何度か改名の後、最終的に「The Hobo King Band」という名称になった)が結成される。 1月に「INTERNATIONAL HOBO KING TOUR」が行われ、7月にはTHE HEARTLAND解散後初のアルバムとなる『』をリリース。 それまでのオリジナルアルバムの中でもっとも多い収録曲数となる全17曲は、もともと指向が広い佐野の音楽性に彩られながら、いずれも2分から3分のポップソングとなっている。 THE HEARTLAND解散後の新しいスタイルが早くも提示された。 また、このアルバムは誌で年間ベストアルバムNo. 1に選出されるなど、現在も評価の高い作品である。 1996年9月から年末にかけて、The Hobo King Bandとともに全国ツアー「Fruits Tour」を行う。 さらに12月には、、というアリーナクラスの会場で「Fruits Punch」を敢行。 中でも特筆すべき点として、日本武道館では国内初のインターネット・ライブ中継を実施した。 「FRUITS」プロジェクトを終えた佐野とThe Hobo King Bandは、さらに音楽的結束を固めるため1997年夏に渡米。 やの出世作を手かげたプロデューサーであるを迎え、にてアルバム『THE BARN』を製作。 12月にリリースした。 アルバムタイトル「」が示すとおり、アルバム制作はウッドストックのベアズビルにある納屋を改造したスタジオに住み込み状態でレコーディングが進められるという、ウッドストックのマナーに沿ったものであった。 近くに住む(ザ・バンド)、ジョン・セバスチャン()、エリック・ワイズバーグらがスタジオに訪れてはセッションに参加した。 アルバムは、その完成度もさることながら、アメリカン・ロックに対するリスペクトの念に溢れたものであり、また1990年代後半に台頭してきたオルタナティブカントリーという新しい流れに呼応した姿勢は、音楽評論家筋から高く評価されることになった。 アルバムに収録した「doctor」と「どこにでもいる娘」は、製作期間中に不慮の事故で自身の妹が亡くなった事に関連している。 翌年初頭である1月から4月にかけて「The Barn Tour」を行う。 中でもに行われたでのライブでは、この日のためにジョン・サイモンとガース・ハドソンが来日し、サイモンはで、ハドソンはで演奏に参加した。 また、ステージ袖で佐野のパフォーマンスを見ていたサイモンは、ステージ上にあるに「Elvis loves you」というメッセージを演奏中の佐野に贈ったという。 デビュー20周年 [ ] デビュー20周年を目前とした、佐野は「どうしても20周年前に一枚アルバムを作っておきたかった」という思いから、を作り、とを核としたデジタルレコーディングシステムを構築。 そこでさまざまな楽曲のレコーディングを始める。 こうして出来上がっていった作品群が結実したアルバム『Stones and Eggs』を8月にリリース。 ほぼすべての楽器演奏やプログラミングを自身で行った。 一方、詩の面では、次第に混乱していくこの国の現実と、その中でサバイバルする人々を表現した作品が増えた。 この視点は後の『』『』に脈々と繋がっていく。 また、「GO4 Impact」ではのとコラボレーションした。 同年8月には、国内初の有料インターネットライブ「The Underground Live」を開催。 まだナローバンド回線だった時代にアンプラグドライブをThe Hobo King Bandと共に演奏された。 なお、この模様は当時開局したばかりのCS局「Viewsic」(現)にても生中継された(ただし、途中で放送が打ち切られた)。 続く12月には、ファンへの感謝を込めたメッセージ曲「イノセント」がより国内初の有料音楽ダウンロードとして販売。 数年後に活発化する音楽のネット販売を見据えたアクションとして注目を集めた。 デビュー20周年となるは、それまでの活動を総括する作品が多くリリースされた。 まず1月には、それまでの代表曲32曲をとしたアルバム『The 20th Anniversary Edition 1980-1999 his words and music』がリリースされ、1月から3月までは20周年記念の「The 20th Anniversary Tour」をと共に全国で9公演行う。 9月には主要なクラブミックス、ダンスミックス・ヴァージョンを集めたコンピレーション・アルバム『Club Mix Cllection 1984-1999』をリリース。 続く11月には、コンピレーション・アルバム『GRASS』をリリース。 さらに12月には作品を集めた編集版『Spoken Words Collected Poems 1985-2000』を発売した。 また、初期の主要作品を発表してから20周年にあたる年に、20周年記念盤をリリースするというアクションも行われている。 2002年5月にはアルバム『SOMEDAY』の発売20周年を記念した『』を発売。 デモトラックなど未発表音源と当時の詳細な資料がパッケージされた。 新たな変革期 [ ] 、21世紀最初の作品となるべく新作のレコーディングをThe Hobo King Bandとスタートする。 バンドにはザ・ハートランド時代からの旧友、がドラムで参加。 サックスにが参加。 レコーディングの模様は逐一「Moto's Web Server」でレポートされていった。 2001年3月、の呼びかけの元、廃絶を訴えるキャンペーンに参加し、50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」に出演。 坂本龍一による地雷除去のためのチャリティーソングの制作にも参加する。 、を受け、すぐさま「光 - The Light」を書き下ろす。 祈りと慈悲と癒しが交差するこの曲は、プライベートスタジオで多重録音され、ラフミックス後すぐにMoto's Web ServerからMP3無料ダウンロードでされた。 この動きに異を唱えた所属レコード会社との交渉の末、9月18日〜30日までの期間限定配信となったが、一週間で約10万ダウンロードされることとなった。 9月21・22日には、らとスポークンワーズライブ「In Motion 2001-植民地の夜は更けて」をで行う。 そのとき、観客を前に「光」を演奏した。 「Daisy Music」設立へ [ ] 2003年には、デビュー以来所属していたレーベル、の25周年記念イベント「」に参加するも、問題などでレーベルと対立が発生。 翌年2004年6月にはエピックレコードを離れ、自主レーベル 「」を発足する。 原盤制作および管理は自主レーベルで行い、宣伝と流通はメジャーレコード会社に委託するという、世界的に進むアーティスト主体のメジャーインディペンデントな考えを実践したレーベル形態となっている。 にはデイジーミュージックからの第一弾アルバムとなる『』が、4年半ぶりの新譜としてリリースされる。 曲毎にさまざまな人物の視点で描かれた短編集のような作りになっている。 そしてそれらはすべて「2004年の日本」を生きる人々の歌であり、自由の追求、「連帯」がもつ陰と陽の部分、そして夢を見る力をもつことの尊さが歌われている。 10月から2005年にかけて全国30公演で行われた「THE SUN TOUR 2004-2005」を行う。 二部構成のステージとなったこのツアーは、The Hobo King Bandに(Dr. )と(Sax)が加わったことで、一部の佐野元春クラシックではThe Heartland時代からお馴染みのライブアレンジが次々と再現され、続く第二部ではアルバム『THE SUN』がディテールを含めてライブで再現された。 スィングしながら縦横無尽に演奏を繰り広げるジャムバンド的な側面も色濃くなり、現在まで続くThe Hobo King Bandのバンドサウンドが確立されたツアーとなった。 夏には「」やで開催された「ハイド・パーク・ミュージック・フェスティバル2005」など音楽フェスティバルに意欲的に参加。 また、この年に日本上陸となったへ、インディペンデントレーベルとして最初の参加表明をするなど、インターネット時代のレーベルとしてその基盤を着実に整備していった。 『COYOTE』の誕生 [ ] 9月から新作のレコーディング作業を開始する。 バンドは盟友The Hobo King Bandではなく、の小松シゲル(Dr. )、の高桑 圭(Bass)、の深沼元昭(G. )という、佐野元春の音楽を聴き続けてきた若い世代のミュージシャンとのレコーディングセッションが続けられた。 その最初の成果として2005年12月に3トラックEP「星の下 路の上」がリリースされる。 こうした世代を超えたミュージシャンやソングライター同士の連帯は、翌年の番組「MUSIC UNITED」を経て、深沼元昭、山口 洋()、藤井一彦()の三人がボーカルとして参加した音楽プロジェクト「MusicUnited. 」にまで発展していく。 新作レコーディングを続ける一方、全国ツアーも精力的に展開。 The Hobo King Bandに女性コーラスグループ「T. Sisters」を加え、1月から4月まで全国ツアー「星の下 路の上」を全13公演行う。 千秋楽となったの公演では3時間以上に及ぶステージを披露し、その模様は2枚組DVD「TOUR2006 星の下 路の上」でノーカット完全版として発表された。 また、同年11月には「」に出演し、の「」を演奏。 また、年末には音楽雑誌「」のイベント、「」に出演した。 続く2007年も新作レコーディングと並行して「 最後の日」や東京・での「 vs 佐野元春」で演奏するなど、精力的な活動が続けられた。 続く6月には新レーベル体制になってから2作目となるフルアルバム『』が発表される。 前作『THE SUN』で見せた、さまざまな登場人物の喜怒哀楽をスケッチする手法から大きく転換し、「コヨーテ」と呼ばれるアウトロー的な男の視点で描かれた「架空のの」というとなっている。 収録された全12曲はいずれも、的であり、サウンドの面でも今までの佐野元春作品とは違った形の現代性を持っている。 特にタイトルトラックである「コヨーテ、海へ」という7分にも及ぶロックバラッドは、一定の評価を得た。 この「コヨーテ」というコンセプトはアルバムだけに留まらず、それまでのスポークン・ワード作品をすべて集めたボックスセット『BEATITUDE』、佐野元春の言葉と音楽について纏めた書籍「ビートニクス - コヨーテ、荒れ地を往く」でも共通のコンセプトとなっている。 デビュー30周年に向けた動き [ ] 新作アルバムを発表した直後には必ずアルバムプロモーションのツアーを行っていたが、『COYOTE』リリース後に同作品を主体にしたツアーは行われず、2008年1月から3月までThe Hobo King Bandと共に全国22カ所を回るツアー「Sweet Soul Blue Beat」が行われた。 最近では演奏されなくなっていた80年代のレア曲やライブ定番曲、そしてThe Hobo King Band結成以降の楽曲から構成され、いずれの公演も3時間にも及ぶステージが展開された。 一方、母校であるの客員講師として、詩作などに関する講義「文学講義412〜詩創作論2〜」を受け持つ。 この活動は現在も形を変えて続けられており、70年代から活躍する国内のソングライターを招いて、それぞれの創作の核心に迫るというオープン講座が定期的に開催されている。 には、佐野元春の主たる活動のひとつであるラジオDJがで復活。 かつての「サウンドストリート」時代のサブタイトルであった「」と銘打たれた音楽番組は、「サウンドストリート」時代から数えて実に22年ぶりとなる。 2009年7月から9月,2010年7月から9月にかけては、において、毎回ソングライターたちをゲストに招いて、主に「歌詞」についてトークしていくテレビ番組『』を企画・出演。 デビュー30周年アニバーサリー活動 [ ] 2010年の3月に東京と大阪のライブハウスで、「アンジェリーナの日」と題されたライブイベントが開催。 これをきっかけにしてデビュー30周年の数々のアクションが提示されることになる。 同年8月には初のスポークンワーズツアー「in motion 2010 僕が旅に出る理由」を全国5ヶ所で開催。 また、「佐野元春のザ・ソングライターズ 2nd Season」がNHK Eテレにて放送される。 続く9月にはベストアルバム「」をリリース、翌10月からは、全国クラブハウスツアー「ソウルボーイへの伝言」を全国21ヶ所で開催する。 「ソウルボーイへの伝言」の初日の前の日には主催のスペシャルライブ「佐野元春30周年アニバーサリープレミアムライブ」も開催された。 2011年1月3日には佐野のアルバム「コヨーテ」をBGMにした堤幸彦監督のロードムービー「コヨーテ、海へ」がWOWOWにて放送、同日には佐野の特番と、ビートを探求する番組も同時に放送された。 1月からは大都市をめぐる「ALL FLOWERS IN TIME」ツアーが全国6ヶ所で開催、その合間にセルフカバーアルバム「月と専制君主」がリリースされる。 3月に入り、ツアー・ファイナルを大阪で開催、大阪城ホールには佐野にゆかりのあるゲストが多数出演し、イベントを盛り上げた。 大阪の後には東京ファイナルも控えていたが、の影響により公演が延期、一時は開催中止も視野に入れていたが、6月に振替公演が決定し、東京国際フォーラムでの2Days公演にて30周年アニバーサリーイベントを締めくくった。 2012年にはFacebookに、佐野元春オフィシャル・ページを開設し、自身の活動や近況、世相を憂う文章などが綴られている。 揺るがぬ歩み、アフター30周年の活動 [ ] デビュー30周年アニバーサリーツアーの最終公演から半年後の2012年12月にホットスタッフ・プロモーションのイベント「L'ULTIMO BACIO Anno 11」(ルルティモバーチョ アンノ11)にCOYOTE BANDとしてライブを行い、珍しい曲を中心にライブを敢行する。 同バンドには新たにギタリスト藤田顕が加わり、深沼とのツインギター体制になる。 このバンドで「COUNTDOWN JAPAN」にも出演。 2012年になってから更にこのメンバーで新曲のレコーディングを開始する。 2012年3月から5月にかけてはビルボードライブ東京と大阪で、The Hobo King Bandによるライブを開催。 新曲「トーキョー・シック」を含む20曲程度をチェロを交えたオルタナティブな演奏でファンを驚かせる。 同6月から7月にかけては、COYOTE BANDとともにクラブハウスツアー「Early Summer Tour」を開催。 新曲2曲を含む珍しい曲のオンパレードでファンを喜ばせる。 特にライブ初演奏となる「警告どおり 計画どおり」はファンから意外性を持って迎えられた。 11月7日、ソニーミュージック時代の楽曲がiTunes Storeで販売開始された。 12月1日の栃木県総合文化センターから2013年2月の東京フォーラム公演まで行われた「2012-2013 WINTER TOUR」では、6歳から18歳までのオーディエンスについてはチケット代金を全額キャッシュバックする「U18 for Free」という試みが行われる。 2013年12月30日にがで死去。 これを受け佐野は公式サイトで「日本の音楽界はひとつの大きな星を失った」「でもその星は空に昇って、ちょうど北極星のように僕らを照らす存在となった」という趣旨の追悼コメントを発表。 2014年1月21日より、ラジオ番組「元春レイディオショー」(MRS)において大滝関連の過去のアーカイブをもとに、故人の想い出を振り返る特集「ありがとう、大滝さん」を4週にわたってオンエアした。 10月29日、アルバム『VISITORS』リリース30周年を記念したスペシャルエディション「VISITORS DELUXE EDITION」発売。 伝承歌「君がいなくちゃ」発売・35周年アニバーサリー [ ] 2015年3月4日には学生時代に制作され、かねてから一部で『伝承歌』として注目されていた 「」が正式に発表され 、ロックチャートで1位を獲得し 、年末にはにラジオ番組で絶賛されている。 同年にはから要請を受けて制作されたCMソング「境界線」や 、「EOS 8000D」オリジナル連続Webドラマ「遠まわりしようよ、と少年が言った。 」のために書き下ろした「私の人生」 翌年に配信限定で正式に発売されたEP「或る秋の日」の収録曲 などのタイアップ付きの楽曲も発表された。 2015年9月29日から2016年3月22日まで、番組『SOUND AVENUE 905』の枠で「元春レイディオショー」が半年間限定で復活。 2月16日放送分では佐野のファンを公言するが出演するなど、趣向を凝らした内容となった。 最終日には ・ が観客としてこのライブに訪れた。 アフター35周年の活動 [ ] 2016年8月10日に東京国際フォーラム ホールAで開催された「THIS! 2016」では前年に成立した改正公職選挙法に伴い、年齢が20歳以上から18歳以上に引き下げられることになった事を祝し、18歳と19歳の者を対象に、開場前に受付窓口に行き、年齢を証明する身分証明書(免許証、学生証、保険証など)を提示することで、チケット代の8200円が無料になる「祝!18歳選挙権」という制度を導入。 すでにチケットを購入済みの18歳と19歳の者は、当日受付窓口で料金が全額キャッシュバックされた。 2017年4月、を訪れアート・イヴェント『Not Yet Free』を開き、スポークンワーズを披露した。 また、この模様は2017年5月28日にNHK BSプレミアムで「佐野元春ニューヨーク旅『Not Yet Free -何が俺たちを狂わせるのか』」と題して放送された。 特徴・エピソード [ ] 人物 英語交じりで翻訳調の、ボソボソとした口調で淡々と平板な、それでいてリズミカルな語り口が特徴。 インタビューなどで「そうだね…」と答えるのが口癖。 基本的にに出演することは少ないが、そこでのトークは印象的で「」に出演した際に、佐野のファンを公言するでさえもトークについていけず「佐野さんホンマ勘弁してくださいよ」と泣きを入れたほどである。 海岸を散策していた時に佐野を遠くから見つめる野生動物に向かって「こっちへ来いよ」と呼びかけたことをに激しく突っ込まれ、1997年4月7日に同番組の特番「Hey! Hey! Hey! Music Award」に出演した際に「動物愛護賞」を授与されていた。 また、2009年に『』 日本テレビ で放送された「」に出演した際には、予測不能な回答を連発し、出演者を翻弄させている。 デビュー以前の話をすると年齢が数年ずれるのが特徴であり、ソングライターズの最終回で未来の詩人への感動的な訴えかけを行った際にもずれていた。 近年は自虐的に「年齢は忘れた」と言うことも多い。 水泳が趣味であり、週に2・3回、約1000メートル泳ぐという。 の全盛期、同レーベルの大ボスとして、同所属歌手(、、、、、など)から敬意を表されている。 特に渡辺は自身のインタビューが編集者によって編集されて、自身の発言とまったく違った言葉が雑誌に載っていたことを悲しみ、佐野にその事を告げると、「あっ、そういう事がこれからあったら僕に言って」と渡辺に話した。 『Sweet16』は、日本レコード大賞優秀アルバム賞を受賞した。 しかし、本人がこのことを知ったのは、受賞から2年後。 マネジメント事務所の隅にひっそりと置いてあったトロフィーを見てはじめてその事実に気づいた。 創作活動 自身はを作っており、どんなに難しい表現の曲を作ったとしても、常に15歳から25歳の聴き手に聴いてもらうことを考えているとし、「僕は大衆音楽を作る人ではないかもしれません」とした上で「でも、誰よりも大衆音楽を作りたいと願っているアーティストでもあるんです」と述べている。 また、自身の楽曲やアルバムの作り方について「「僕は悲しいので、こんな思いをみんな聴いて、同情して」みたいな曲は、僕は絶対に歌わない。 本当のことを言うと、曲を書く時に、僕が個人的に言いたいことは、何もない」「その時代、その時代の、僕の新聞のようなもの」「曲のタイトルがヘッドライン」「僕の思いを入れない方が、上手くいくわけです」「自分の曲を歌って、自分自身がエキサイトするものでなければ、大抵は駄作だなって思っている。 だいたい、僕なんかより、もっと感受性の強い人たちが聴いてくれているんだから、リスナーを絶対に見くびったりはしないし、いつも恐る恐る「大丈夫かな? 」と思いながらソングライティングしています」「だから、客観的な表現になるんだろうね」「僕のような風来坊が考えていることなんて、どうでもいいことなんです(笑)」と述べている。 実体験に基づいて作詞しているのかと聞かれることもあるというが、本人によると「100%自分の事を歌った詩はひとつもない」といい、「そういう意味では自分は作家なんだなと思います」と述べている。 事実、前述したとおり佐野の楽曲には学生時代に書かれた楽曲がプロになってから正式に発表されたケースも存在している。 発表の有無を問わず、午前中には楽器を弾いたり作詞・作曲をしているという。 また、ストックは100曲以上に及ぶといい、曰く「インストゥルメンタルの曲だったら毎日できる。 難しいのは言葉付きの音楽。 言葉がないんだったら、いくらでも出てきます」という。 スポークン・ワーズ 日本ではメイン・ストリームではあまり浸透していないにも積極的に取り組んでおり、佐野は自身がスポークンワーズをやる理由を「パフォーマーがどの国籍に属していようと一定の理解が得られるはずだという確信のもと、それを試してみました」「僕は自分の母国の言葉に誇りをもっています。 母国語でスポークンワーズすることが、自分にとってはとても大事です。 原語の理解を超えて、他の文化圏の人に通じるものがあるはずだ、という確信がどこから生まれるかといえば、それは母国語に対する信頼にあると思います」 と述べている。 その他 晩年のと交流を持ち、、、にインタビューを行うなど、ビートニクスへの造詣が深い。 2007年の著書『ビートニクス』は、ビート派の作家・詩人たちについての本であり、が旅した地を再訪した文章や前述したインタビューなどが収録されている。 政治的な事柄を取り上げる事については「ソングライターとして日々生きていますから、恋愛も政治も経済も社会的な何かも全てフラット。 特にポリティカル(政治的)なことに集中して詞を書くなんて不自然なことはやっていません。 普通に曲を書いていれば、そうしたところに触れてくるのは、僕の中では当然なことです」と述べている。 1995年1月22日、1月17日に発生したを受け、「先進国って何だろう」という詩を被災地で働くボランティアに向けて発表している。 2011年3月13日、2日前の3月11日に発生したを受け、自身のオフィシャルウェブサイトで、12、13日の公演休止の報告、などの支援団体へのリンク先、震災直後の世間の動向への憂いを交えながら被災地の復興を願う内容の詩「それを「希望」と名づけよう」を掲載した。 なお、上述の3月13日は佐野の55回目の誕生日であった。 2015年5月7日、自身のフェイスブックで「境界線」というタイトルで、自らがを訪れてで撮影した写真と、を憂う内容の文章を掲載した。 『』2016年10月号の企画で「はなぜここまで嫌われたのか」とのテーマに対して、「SEALDsは嫌われたんじゃない、怖がられたんだ いつの時代でも、自由な存在を怖がる連中がいる」と、の活動に対して理解を示し、好意的な立場を取っている。 2017年5月17日、自身のフェイスブックで「僕の蒼い鳥がそう言っている」というタイトルでの「良心の領界」の序文を引用しつつ、当時国会で議論されていた()を疑問視する趣旨の文章を掲載した。 「霧の中のダライラマ」の曲名が示すとおり「チベット自由と人権の集い」に賛同者として名を連ねており、によるに抗議しに対するに反対しているという。 配信限定EP「Not Yet Free」の一曲目の「こだま-アメリカの友人、日本の友人に」の内容がやを批判しているのではと解釈されたことがあったが 、佐野はこれを否定している。 評価 、松本人志(ダウンタウン) 、 、 、 、 、 、 、 など幅広い著名人が佐野のファンであることを公言しており、佐野も彼らに対し分け隔てなく接している。 佐野の存在は音楽界をも震撼させ、のプロデューサーが佐野の才能に惚れ込み、楽曲提供を依頼するほどとなった。 株式会社社長のは、を刊行する際「第一号の表紙は絶対に佐野元春しかいないと思っていた」と語っている。 一方で渋谷は、デビュー前の佐野に評論家の見地から苦言を呈してもいる。 同世代であり、1985年の『』で共演して以来、手紙で連絡を取っている()は佐野の才能を認めており、2013年のイベント「」で「SOMEDAY」をカバーしたり 、自身のラジオ番組「」で佐野の楽曲を取り上げたりしている。 また、佐野も桑田の才能を認めており、自身が司会を務めた「」で真っ先に桑田に出演オファーをしたが、その当時がちょうど桑田がで休養していた時期と重なったためにいまだに実現していないといったエピソードがある。 『』2011年3月15日号で対談をしたことがあるは、自身のブログでその事を振り返り、佐野の「僕はどんなリーダーにも従わせない側にいたい、そのリーダー達が怖がるような存在でいたい」という発言を大好きであると述べており、「あんなアーティストに俺もなりたいよ。 誤解も正当な評価も飲み込むような、大きいね」とまとめている。 後述する『』の企画への関わり を参照 や前述した『』への出演でも分かるようにバラエティーと佐野との親和性についても高く評価されている。 また、佐野自身もお笑いに対して理解と敬意を示している。 主な使用楽器 [ ] ギター [ ]• デビュー当時から使っている製のストラトキャスター。 カスタムカラーのレッドが印象的でバックはバックルの傷がある。 30周年ツアーのファイナルでも常時使用していた定番モデル。 製のジャズマスター。 ドット・ネックのオールド・モデル。 初期のロックンロール・ナイト・ツアー、ビジターズ・ツアーで使用していたが、一時期お目にかかることがなくなり、HKBのライブで復活している。 全世界で36本だけ限定生産されたアニバーサリー・モデル。 ハイランダーのピエゾ・マイクが内蔵されている。 「The Milk Jam Tour」や「星の下路の上ツアー」でも使用。 ヴィジターズのライブ・ビデオのなかでも使用しているギター。 社のジャズ・ギターの代表機種のひとつ。 通称フローレンタイン カッタウェイ シャープド・カッタウェイ と呼ばれているもので - でしか製造されていない貴重なもの。 Rock Jet 「The Burn」ツアーでも使用• このギターはのちに『』 日本テレビ で放送された「クイズ佐野元春の500のコト」の中で、優勝賞品として に贈呈された。 」主題歌 ラジオ番組 [ ]• 「元春 Radio Show」(、毎週月曜PM10:00 - 、1980年 - 1986年)• Heartland Hour(、毎週日曜日AM10:00 - 11:00、1985年 - 1987年)• AJI FMスーパーミクスチャー( 毎週日曜日PM3:00-3:55、1987年 - 1989年)• Asahi Beer Tasty Music Time(TOKYO FM、月曜 - 金曜、PM11:00-11:20、1990年 - 1991年)• Radio Fish(TOKYO FM、毎週土曜日PM8:00 - 8:55、2002年10月 - 2005年3月)• (、毎週火曜PM11:00 - AM0:00、2009年3月31日 - 2014年3月18日)• 「」(、火曜日担当PM21:00 - PM22:00、2015年9月29日 - 2016年3月24日) TV番組 [ ] 音楽番組• (1980年、)• (1985年、)• 佐野元春ロックンロール・ポエトリー(1993年、)• (2006年-2007年、製作・系)• シリーズ(2009年 - 2012年、NHK Eテレ)• 佐野元春のザ・ソングライターズ1(2009年7月 - 9月)• 佐野元春のザ・ソングライターズ2(2010年6月 - 9月)• 佐野元春のザ・ソングライターズ3(2011年4月 - 7月)• 佐野元春のザ・ソングライターズ4(2012年10月 - 12月)• 佐野元春のBack to the Roots〜ビートの原点を探す旅20,000キロ(2013年12月28日、) - ナビゲーター• トーク番組• 2000年のイノセント(2000年、テレビ朝日) - 野茂英雄、吉井理人と対談• SWITCHインタビュー 達人達(NHK Eテレ、2014年4月5日) - 浦沢直樹と対談 バラエティ• (2004年-2005年、製作・系)• 第8回クイズ佐野元春の500のコト(2009年4月26日 - 5月3日、日本テレビ系) 教養番組• 「アートの旅 みつけよう、美 秋編」(2015年12月6日、NHK総合) 、、の生家を訪れた。 ドラマ• シリーズ() - 当麻天 役• SPEC〜警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿〜 最終話(2010年12月17日)• (2013年10月23日)• このほか、同作の映画化作品『 爻ノ篇』挿入歌に佐野の楽曲「彼女」が起用された。 CM出演 [ ]• 「NEW SR60」• ・アサヒ本生アクアブルー• ・サッポロ生ビール黒ラベル 大人エレベーター 楽曲提供 [ ]• 「スーヴェニール」• 「ストロベリーフィールド」• Romy• 「California」• 「Silent Dancer」• 「Looking For A Fight」• 「So Young」• 「Silver Girl」• 「Vanity Factory」• 「Why Oh Why」• 「彼女はデリケート」• 「Bye Bye Handy Love」• 「I'm In Blue」• 「すべてはこの夜に」• 「彼はデリケート」• 「SOUL SPIRIT Part II」• ANDY'Sは『』の企画で結成されたユニットであり、メンバーのたっての希望で佐野に楽曲提供が依頼された。 「昨日までの君を抱きしめて」• 「ダンスが終わる前に」• 「White Communication〜新しい絆〜」• 「Un Jour」• 「恋のソルジャー」• 「ふたりの理由、その後」 共作・コラボレーション [ ]• ・との合同プロジェクト。 『』収録。 「Home Planet 〜地球こそ私の家〜」• とのデュエット。 長らくアルバム未収録だったが、2006年に発売された佐野のベストアルバム『』に収録されたのが初であり、2010年に渡辺のベストアルバム『』のボーナストラックとして収録されている。 「また明日…」• と競演。 同名のシングル、アルバム『Sweet16』にそれぞれ収録されている。 「エイジアン・フラワーズ」• 、との競演。 『Sweet16』収録。 「Angel」• と競演。 『The Circle』収録。 「GO4 Impact」• のと競演。 『Stones and Eggs』収録。 「石と卵」• と競演。 『GRASS〜The 20th Anniversary Edition's 2nd』収録。 「じぶんの詩」• ・とのユニット「」として参加。 「自転車でおいで」• 矢野顕子とのデュエット。 矢野のアルバム『』収録。 「So Goes The Song Love Planets 」• に詞を提供。 ジョン・サイモンのアルバム『Home』収録。 参加作品 [ ]• 「」 エンディングの「All Together Now NO. 9」のセリフで参加。 「Nobody」 コーラスで参加。 「内気なジュリエット」 コーラスで参加。 「Key Station」 「I wanna be with you tonight, baby」のセリフで参加。 また「佐野元春」という固有名詞が歌詞に登場する。 「夜を駆けぬけて」 コーラスで参加。 「エンプティ・ハンズ」• 「Better days」 ボーカルとして参加。 「君を守りたい」 イントロ部分のボーカルとして参加。 また、歌詞カードの「インスピレーションを有難う」という欄に、、と共にクレジットされている。 元THE HEARTLANDの、も参加。 「」 楽曲の中には佐野の楽曲「レインボー・イン・マイ・ソウル」のフレーズが引用されている。 冒頭ではと共に「」のパロディーを行っている。 が地雷除去費寄付の為に呼び掛けて作った。 メンバーとして歌唱に参加。 著書・関連書籍 [ ]• ハートランドからの手紙 スイッチ・コーポレイション書籍出版部, 1990. 11 /(文庫版)• コヨーテ、荒地を往く , 2007. 9 雑誌編集 [ ]• : 佐野元春による責任編集マガジン。 発行時期や発行元、編集コンセプトの違いにより、3期に分かれる。 第一期 1983. 4〜1984. 2 全4冊• 第二期 1986. 4〜1987. 1 全4冊• 第三期 1994. 9〜1997. 5 全12冊 扶桑社 関連書籍 [ ]• 路上のイノセンス , 1986. 8 文庫版 シンコーミュージック1993. Scratch 写真 CBSソニー出版, 1983. 5月号 「総力特集・佐野元春新しい夜明け」角川書店, 1991. TheCircle of Innocence 佐野元春をめぐるいくつかの輪のなかで , 1999. 時代をノックする音 佐野元春が疾走した社会 著 , 1999. 佐野元春語録 1980-1999 編 , 1999. ロック画報 20「特集・Individualist 佐野元春」, 2005. 別冊カドカワ 総力特集 佐野元春 30th Anniversary スピリチュアル・メッセージ「音楽というカルチャーを求めて」角川書店, 2010. 12 脚注・出典 [ ] []• 『ココナッツ・バンク』でギターを弾いていた伊藤がアメリカ帰りの佐野と初めて出会ったとき、伊藤は「のようなメガネをかけた佐野がについて、情熱的でがむしゃらに語ったために、いすから転げ落ちそうになった」と述べている(『SOMEDAY』より)。 「」2011年1月15日放送分で本人発言。 1991年5月 総力特集:佐野元春• NHK• 『日本ロック学入門』内ロングインタビュー• 月刊カドカワ 1991年5月 矢野顕子からの質問に答えて• 「」「グッドバイからはじめよう」「」など。 文藝別冊『大瀧詠一』• 『』1994年2月増刊号、『bridge』72ページ• ヤングジャパンから派生した事務所の元締めとしてのは現存する。 別冊カドカワ 総力特集佐野元春(2011年)• 『シンプジャーナル・ベストセレクション'80s』、2003年、p81-82• 「急上昇! 30センチシングル盤」『』1985年1月16日付夕刊、13頁。 数年後にが「」で化するものの封印は解かれなかった。 Holland Roseの由来は、佐野がDJを務めていたラジオ番組に小学生リスナーが 「」を 「ホーランド・ローズ」と書き間違えたことがきっかけ。 『Views』93年2月号• 『THIS』95年春季号• 佐野元春 : オフィシャル・ファンサイト - Moto's Web Server 最新ニュース 過去のトピックス Vol. 1 2010• 2015年12月27日• ライブドアニュース• 日刊スポーツ 2017年9月11日11時1分 紙面から• LEON. 日刊スポーツ 2017年9月11日11時1分 紙面から• 日刊スポーツ 2017年9月11日11時1分 紙面から• リテラ• 『ロックは語れない』新潮文庫• 2014年02月20日 タワーレコードオンライン• 2015年12月27日• YouTube• オンライン販売のみでの発売。 ではアルバム扱い。 「佐野元春MusicUnited. 」名義。 版アルバム『ZOOEY』からの先行配信につき、カタログコードのIDが『ZOOEY』と同じとなっているため、リンク先は『ZOOEY』である。 当初は、2020年6月10日に発売予定だったが、による制作の遅れにより発売日が変更された。 当初は、2013年11月27日発売予定だったが、制作の遅れにより発売日が変更された。 当初は、2018年3月14日発売予定だったが、制作の都合により発売日が変更された。 からまで期間限定でダウンロード販売された。 ニコニコニュース 2019年2月16日. 2019年2月16日閲覧。 Holland Rose名義• 作曲のみ担当。 作詞のみ担当。 Holland Rose名義 アルバム『Fight! 』に収録• 作詞・作曲・プロデュースを担当。 MOTO名義• 作詞・作曲を担当。 後に「 シーズンズ」とタイトルを変えてセルフカバー• 作詞のみ担当。 関連項目 [ ]• - 同じ年にデビューした歌手 外部リンク [ ]• - 公式サイト• - 公式ファンクラブ• MotoWebServer -• - チャンネル.

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