額田 王。 額田王とは?生涯・年表まとめ【作品や系図、漫画についても紹介】

二人の天皇に愛された額田王と女帝持統天皇 二人の女性の生涯は?

額田 王

額田王恋の歌:万葉集を読む ||||||| 額田王恋の歌 額田王は、万葉の女性歌人のなかでもひときわ光芒を放つ存在である。 ただに女性らしき繊細さに溢れていたというにとどまらない。 相聞歌における率直な感情の表出は、斬新なものであったし、また、当時はやりつつあった漢詩に対抗して、和歌にも叙景などの新しい要素を盛り込み、歌の世界を広げたともいわれる。 北山茂夫は、彼女を評して、万葉の世紀の初期を代表する歌人であり、人麻呂、赤人へとつながる流れを用意したともいっている。 だが、多くの現代人にとっては、額田王といえば、恋多き女というイメージが強いのではないか。 そんな思い込みを助長するかのような相聞歌が、万葉集巻一の冒頭に近い部分に載せられている。 時ニ大皇弟諸王内臣及ビ群臣皆悉ク従ヘリ。 詞にあるとおり、これは天智天皇が群臣とともに蒲生野に狩をした時に、額田王と皇太子大海人皇子(天武天皇)との間に交わされた相聞歌である。 恐らくは、皇子のほうから先にモーションを仕掛けたのであろう。 額田王が、こんなところで袖などお振りになると、野守にみとがめられますよと、たしなめると、皇子のほうでは「紫のにほへる妹」を恋わずにはいられないといって返す。 このやりとりが、狩の野を背景にした切ない恋のかけひきを感じさせる。 実は、この二人は若い頃に結婚し、子まで設けていた間柄なのである。 だが、大海人の兄たる天智天皇が額田王を見初め、自分の妻にしてしまったため、二人は引き裂かれてしまった。 そんな切なさが、狩という開放的な雰囲気に接して、昔の思い出を呼び寄せたのかもしれない。 とはいえ、額田王は、新しい夫たる天智天皇に対しても、愛の溢れる相聞歌を贈っている。 それは、天皇始め王族にあっても同様だったらしい。 だから、夫の来るのを待つ女の心を詠んだ歌は、相聞歌の中心をなすものであった。 そもそも、この国に和歌というものが生まれ、それが広がっていったきっかけは、このような結婚の形態がもたらす、相聞のやりとりにあったとも思われるのである。 この歌は、簾といい秋の風といい、叙景にことよせて恋の心を歌っている。 その歌い方が余りに斬新であったので、論者の中には、額田王にかこつけて、後世のものが作ったのではないかというものまで現れた。 それほどに、古代人の感性としては、新しいものがあったのだろう。 額田王は、叙景の歌にも優れたものを残した。 当時漢詩は、新しい教養として貴族の間に普及しつつあった。 日本伝来の歌に比べ、結構においても表現においても幅が広く、論理性や叙景に優れた器と意識されていた。 そこを、額田王は日本古来の言葉を以て、あえて叙景の歌を作ったのである。 対句を効果的に用いているところなど、漢詩の影響もあるのだろう。 だが、日本語でこのような歌を作ることができたのは、彼女以前には殆どいなかったのではないか。 詞とイメージの運び方などは、後の時代の人麻呂や赤人を想起させる。 額田王は、中年時代に最愛の娘をなくし失意の時期もあったらしいが、長い寿命を享受したらしい。 六十歳を過ぎてもなお、若々しさを失わず、二十代の青年と相聞歌をやり取りしている。

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額田王と二人の天皇 その怪しい三角関係のヒミツ!

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『万葉集』には、恋人たちが詠んだ多くの恋の歌が収録されている 額田王が詠んだ和歌は多く残されており、『 万葉集』の中には 長歌が3首、短歌が10首収録されている。 短歌というのは、現在でも多くの人に親しまれている、 5・7・5・7・7の31音からなる詩歌のことで、長歌というのは、5音と7音を何度か繰り返したのち、7音・7音で結ぶ詩歌のことである。 また、短歌や長歌の他に、 5・7・7・5・7・7の形式で詠われる 旋頭歌 せどうか や、恋人たちがお互いの想いを歌にのせてかわす 相問歌 そうもんか など、『万葉集』には非常にさまざまな種類の和歌が収録されているのである。 額田王が詠んだ和歌の多くは 恋の歌だと言われており、そのことからも、彼女の生涯は情熱的な恋に溢れ、また恋に翻弄された美しい女性像というものが、後年になるにつれて出来上がっていったのではないだろうか。 後ほど触れる、 2人の天皇との三角関係のエピソードもあいまって、額田王は美人だったのではないかという説があるが、残念ながら彼女に関する史料があまりにも少なく、その容貌に関しての記述は残っていないというのが現状である。 2人の皇子(天智天皇と天武天皇)のはざまで 大海人皇子は、のちの天武天皇となった 額田王は宮廷に仕える才女で、おそらく美しい上にずば抜けた歌の才能を持っており、一説には、 采女という、地方豪族の娘が天皇や皇后の身の回りの仕事をする存在だったのではないかと言われている。 当時、大海人皇子と呼ばれていた 天武天皇は、額田王を娶り、2人の間には娘も生まれて幸せに暮らしていたのだが、そこに現れたのが 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)。 のちの 天智天皇である。 中大兄皇子と大海人皇子は、同じ両親から生まれた 同母兄弟である。 飛鳥時代と言えば文化が発展し、華やかな朝廷文化が栄えているイメージであるが、親子や兄弟での権力争いが激しく、時には戦や反乱が起こった厳しい時代でもある。 中大兄皇子は、権力のためならば身内をも抹殺する厳しい男として知られていたが、そんな彼が、弟の妻である額田王を見初める。 中大兄皇子は、弟・大海人皇子に「 自分の娘を妻として差し出すので、代わりに額田王を妻にほしい」と申し出た。 大海人皇子は、自分の政治的立場を考えると、兄に従うのが得策だと考え、額田王を中大兄皇子の後宮へと差し出したのだと言う。 額田王も自身や娘のことを考えて、中大兄皇子の妻になることを承知したのではないだろうか。 有名な相聞歌「あかねさす…」 長い間、大海人皇子が中大兄皇子の跡継ぎで自分の甥であるに対して反旗を翻した「 」は、額田王を兄である中大兄皇子に奪われたことによる復讐劇だった…という説が信じられてきたが、実際には「壬申の乱」と額田王をめぐる恋愛模様には まったく関係がないらしい。 実際、大海人皇子と額田王の結婚生活はもっとビジネスライクだったのかもしれないし、もしかしたら無理やりに引き裂かれ、泣く泣く夫婦の別れを決意したのかもしれない。 額田王には謎が多いだけに、後年彼女を題材にした作品も多く創作された。 永井路子が書いた小説『』も、現代の女子大生が額田王の研究を続けていくうちに、彼女の生き方に惹かれていく…という話である。 この小説になっている『茜さす』という言葉だが、こちらは、額田王が晩年にかつての夫である大海人皇子と交わした相聞歌からとられた言葉である。 元夫婦の道ならぬ恋だろうか?と少しドキッとさせられてしまうような一対の相聞歌であるが、実はこの歌が詠まれた頃、大海人皇子も額田王もともに高齢で、 過去の恋を引き合いに出して、戯れに詠んだ歌だと言われている。 それにしても、権力や血筋を残すことが第一である朝廷の夫婦観の中に生きたとしても、この額田王と大海人皇子の関係は、なんとも味わい深いものだと言えるだろう。 額田王のドラマチックな生涯 この記事では、随一の歌人と言われながらも、謎に包まれた生涯を送った額田王について調べてみた。 額田王は、中年時代に、まだ年若い娘を亡くし、悲嘆にくれたこともあったというが、当時としては長生きと言える60数年間の生涯を全うしたとされている。 60歳をすぎてもなお、20代の若者と相聞歌のやりとりを続けていたそうだ。 そんな彼女のドラマチックな生涯を堪能したい方は、井上靖「」をぜひご一読いただきたい。 揺れる女性心を見事に描き切った大作である。 カテゴリー• 123• 587• 162• 1,405• 153• 799• 584• 165• 175• 140• 133• 107• 557• 101•

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額田王と二人の天皇 その怪しい三角関係のヒミツ!

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Sponsored Links 万葉の歌人、額田王。 王と付きますが、女性の皇族であり、二人の天皇から愛されたことから、絶世の美女として後世の小説などには描かれてきた人物です。 そんな彼女と彼女をめぐる二人の天皇とのヒミツの三角関係について迫ります。 額田王と天武天皇の関係 額田王は一説では采女(地方豪族の娘で天皇や皇后などの身の回りの世話をする女性)出身とされていますが、父の鏡王は宣化天皇の曾孫とされ、皇族出身だという説もあります。 そんな彼女は「日本書紀」の記述によると、大海人皇子(後の天武天皇)に嫁ぎ、十市皇女(天智天皇の息子の大友皇子妃)を生むと書かれています。 天智天皇と天武天皇の関係 中大兄皇子(後の天智天皇)と大海人皇子は舒明天皇を父に、皇極天皇を母とする同母兄弟です。 一説では大海人皇子が兄とするものもありますが、現在の一般的な説としては中大兄皇子が兄とされています。 額田王と天智天皇の関係 額田王は大海人皇子に嫁いで娘とともに暮らしていましたが、その才能(当代一の歌人と言われた)に惚れ込んだ中大兄皇子が、大海人皇子に「自分の娘を二人(太田皇女と鵜野讃良皇女)嫁がせるので、額田王をくれ」と要求しました。 自分の目障りとなる者は容赦なく殺してきた兄の恐ろしさを知っている大海人皇子は、自分の政治的立場も含めて危険な目に合わないように、この兄の要求を承諾しました。 こうして額田王は大海人皇子の下を去り、中大兄皇子の後宮に入ることとなったのです。 Sponsored Links 中大兄皇子の歌 「香具山は 畝傍を愛(お)しと 耳成と相争ひき 神代より かくにあるらし 古も しかにあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき」 この歌の意味は、「香具山は 畝傍山がいとしくて 耳成山と戦った 古代からそうだった 昔からそうだったのだから 現代でも 妻をうばいあう」ということです。 まさに自分のことを表している(言い訳している?)歌ですね。 額田王と天武天皇の歌 天智天皇の治世中、天皇や周りの人物が蒲生野に遊猟に出かけた際に詠まれた歌があります。 額田王「茜さす 紫野ゆき 標野ゆき 野守は見ずや 君が袖振る(茜色に輝く紫野を、標野を行き来しているあなた 野守は見ていないでしょうか そんなに袖を振ってそんなに私に合図なさっているのを)」 大海人皇子「紫草の 匂える妹(いも)を 憎くあらば 人妻ゆえに 我恋いめやも(紫に美しく輝くあなたを嫌なわけがあれば 愛してはならない人妻のあなたになぜこんなにも恋い焦がれようか)」.

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