皇室菊の紋。 右翼による菊の御紋使用がなぜ野放しになっているのか?

菊の御紋、花びら枚数確認天皇関係 16枚、皇太子関係 15枚と聞いて...

皇室菊の紋

みなさま ご機嫌よう。 「令和」の御世になり 幾分、時を経てまいりましたが 如何 お過ごしでしょうか 新天皇陛下は 2019年5月1日に 御即位の証に 三種の神器の 『剣と勾玉』を引き継がれました 即位礼正殿の儀は 10月22日 大嘗祭は 11月14日・15日 いろいろな 皇室行事に伴って 国民の目に触れるのことの増えた 【菊の御紋】 それは 16枚の菊の花弁が 表を向いて重なって描かれた 【十六八重表 じゅうろくやえおもて 】 親王 嫡出の皇子・最高位の皇族男子 が使用する 天皇および皇室を表わす紋章です 本日は その 【菊の御紋】について 歴史を辿りつつ語ります 宜しければ どうぞ ごゆるりと お付き合い下さいませ 菊の御紋 奈良時代 日本における 菊の 花の起源ですが なぜか 微妙なのです。 奈良時代 から 平安初期に 中国大陸より伝わったとされる それはどれも、 大輪の菊のこと。 中国で 菊の花といえば 四君子 (=中国語で、徳・学識・礼儀を備えた人を指す) 梅・竹・蘭と共に、菊も 四君子の一つです 薬効があり 神聖で 長寿と災い除けの意味をもつ 大輪の花 ゆえに 菊の花は元来、日本には自生していなかった っと… 言う声もあるのですが 一方で 古より 日本にも 野菊は自生していたと 譲らぬ声も根強いもので 楚々とした姿ゆえに その存在は、目に立たなかっただけと。 ただし 奈良末期の最古の和歌集 【 万葉集】に菊は 詠まれておらず やはり無かったのでは? という お話しも。。 それでも それがまた 日本の野菊らしい と、仰る専門職の園芸家さんもいらして 謎のまま。 あなたは どうお感じになりますか。 平安時代 平安時代に綴られた 古今和歌集 =平安前期の勅撰和歌集 (天皇や上皇の命により編集された歌集 や、 源氏物語 =平安中期に成立した日本の長編物語 この中に詠まれた 詩歌を紐とけば この時世には 菊の花が人々の心を捉えたのは 明確なことのよう 人々は、陰暦9月を 菊月と呼び 九月九日を 重陽の節句(菊の節句 とし 邪気を祓い、延命を寿 ことほ ぐ 菊花酒(菊の花びらを浮かべた酒 による 菊花の宴・菊花の杯 宮中の 観菊の宴 貴族に広がる、吉祥紋としての衣裳 それは 雅に この国風に 溶け込んでゆく様で 鎌倉時代 ご存知 後鳥羽上皇 は 平安末期~鎌倉初期) 第82代天皇 高倉天皇の第四皇子で 尊成 たかひら・たかなり さま。 ことのほか 菊を好み 自らの 御印として 衣服・刀剣・懐紙に、 菊紋を付して ご愛用の品々に召されます また 鍛冶を好まれ 全国から名工を集め、仕えさせ、刀を作らせ 時に 自らも刀を打ち、 菊の銘を刻む とうとう 他の貴族たちは 使用を控えるようになったそう このように 天皇家の紋章として 公に取り入れられたのは 後鳥羽上皇尊成 たかひら さまから。 その後 後深草 ごふかくさ 天皇 亀山天皇 後宇多 ごうだ 天皇により継承され ますます 皇室の紋として認知されると 楠木正成など、 公家や武将も、衣服の文様や 装飾に使用 貴人たちの憧れ 心の豊かな良き 御世なのですね 戦国時代 その風流な菊花が その気配を変えるのは この頃から。 後醍醐天皇より 足利尊氏へ そして 後陽成 ごようぜい 天皇から 豊臣秀吉へ。 それぞれに 戦場の褒賞として菊紋を下賜 かし され 家紋にと賜る 戦国の世よりは 紋章の役目も色を濃くし 天皇の臣下の者らが 自らの力と立場を示すために 江戸時代 【錦の御旗】 それは 天皇の軍の旗。 別名 「菊章旗」「日月旗」には 赤地の錦・金色の日像・銀色の月像 もあり 時の流れが作るものの怖さかな とはいえ いつの世にも学ぶべきはあり・・ 徳川家康が、菊紋の 下賜を断った背景には 幕末の流行歌 「菊は咲く咲く 葵は枯れる」 伏見小唄 があり 以降、江戸幕府が使用を自由とし 菊紋は 武士・武家の家紋、多くの大名 神社仏閣の紋、店舗の商標に そして、市井 しせい の人々へ 十菊・十二菊・菱菊・光琳菊・菊水など 多くの菊花の紋が、華を咲かせます 明治時代 南洲菊 ご存知、 西郷隆盛。 維新の功績が認められ 明治天皇より菊紋をいただきます 「抱き菊の葉に菊」とも呼ばれる 【南洲菊】は 明治天皇 御自らがデザインしたもの その後、 1869年 明治2年 8月25日 太政官布告 だじょうかんふこく 第802号により 『十六八重表菊』が 公式に皇室の紋とされ 一部の神社 伊勢・八幡・上下賀茂や、 お寺の 泉涌寺(せんにゅうじ)・ 般舟院(はんじゅういん) などを除き、一切の使用が御法度に。 1871年 明治4年 6月17日には 皇族以外の菊花紋の使用も禁止 その後は、規制も緩められ 令和元年 動画あり 令和の御代に お目見えした 御料車の トヨタ・ センチュリーロイヤル。 ここに新風を受け たなびく 【十六八重表菊】が見られます 新天皇陛下・徳仁 なるひと 様は 明治以降初めて 独立まで上皇・上皇后さまの御許で 愛情深く成長された 初の 天皇陛下です 新皇后・雅子様は ハーバード時代の恩師より 「群をぬく知性と 信じられないほどの勤勉さ」と 言われる御才女 御二人の 御見識の豊かさが 時を継がれる お心が 海を 隔てることなく 四方へ満ちる 和光となりますように 16弁の 花びらの如く・・ 本日も 最後まで御読みいただき ありがとう存じます 令和にも あなたと あなたの大切な人たちが 健やかに 伸びやかに 前を見て 夢を語れる御世となります様に こちらにも ひと筆 申しております 宜しければ ご覧くださいませ お疲れでしたら 無理をせずに 一服なさってくださいね では、本日はこの辺りで おいとま致します。 ご機嫌よう。 ご 挨 拶 千年の先 15代あとの子らに あなたは 何を伝えたいですか 日の本のくにの 言の葉の ぬくもり きよらかな 所作 いまを 惜しみ 慈しみ 人を敬い 薫るように 歳を ゑるほどに 人を深めて もし 叶うのなら 和事に 華を咲かせながら 生きてみたい。。 ここへ いらして下さる方々に ほっと一息つける場所に なれますように つたないブログですが つまずきながら 学びながら 感ずるままに 綴っております どうぞ ごひいきに。。 立川・府中アスレティックFC.

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「菊」の家紋

皇室菊の紋

特に日本では菊を「花貴種」といい、「百草王」とも言って、草花のなかでも高貴なものとされた。 天皇の中でも鎌倉時代の後鳥羽上皇が菊紋を好み、使用した。 その後、多くの天皇がそれにならった。 菊紋が天皇家の紋と定められたのは大正15年の「皇室儀制令」。 時代以前は、皇室と関係のある一部の神社しか菊の紋は使えなかった。 、宇佐八幡、上下賀茂神社の四社。 明治12年(1879年)5月に官国弊社一般に使うことが許可されてから、菊紋を使う神社が増えた。 現在菊紋を神紋とする神社は全国の1割以下という。 ・ 大正15年に宮内省から「御紋章類似形の取締標準」が出ている。 その後の歴代天皇がそれを継承したため、皇族専用となった。 菊紋は、鎌倉時代初期に後鳥羽上皇が好んで用いたのが起源。 ・ 十六葉菊紋: 正親町源氏の広幡家。 清和源氏義家流の里見家、岩松家、喜連川家。 宇多源氏佐々木氏流の京極家。 この菊水の「酒銘」がまさにこの紋。 を見ると、「菊の水は不老長寿をもたらすものである」とあり、「太平記」に由来しているようです。

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菊花紋章とは

皇室菊の紋

菊紋の由来とは 日本には、古くから「野菊」という菊の花がありました。 これは小さくて可憐な花ではありましたが、人目を惹くような圧倒的な華やかさを持つ花ではなく、それゆえに注目されることもありませんでした。 ところが、仁徳天皇(16代天皇)の時代に、中国から「これまでとは全く違う形の菊」が入ってきます。 大きくて華やかな花を咲かせる菊は、その美しさからたちまち当時の人々を虜にしました。 この菊が貴族たちの間で愛でられるようになり、そこから菊紋が生まれたと言われています。 天皇家でも行事の中に菊の花を使ったものを取り入れるなど、菊との関りは深くなっていきました。 天皇家の御紋として菊の花が正式に採用されたのは、平安時代に入って後鳥羽上皇の代になってからです。 とりわけ菊の花を愛した後鳥羽上皇は、天皇家の調度品などに菊の紋を使用するようになり、そこから天皇家の御紋として使用されるようになりました。 ちなみに、天皇家にはもうひとつ「日月紋」と呼ばれる紋があり、こちらは幕末に使用された「錦の御旗」で有名な紋です。 武将に下賜されることで広まった菊紋 天皇家が使用していた菊紋ですが、戦国時代になると「戦果を挙げた武将への褒賞として下賜される」ということが行われるようになりました。 例えば、将軍となった足利尊氏は当時の後醍醐天皇から菊紋を下賜されています。 また、豊臣秀吉も後陽成天皇から菊紋を下賜されており、大層喜んで調度品などに使用していたと言われています。 当時、天皇は神様と同等ともいえる存在。 その天皇から家紋を下賜されるということは、武将たちにとって何にも代えがたい誉でした。 それだけに、勝手に真似をして菊紋を使用した人物がいる一方で、「恐れ多い」と辞退した人もいたほどです。 菊紋の存在は、それほど大きなものだったのです。 「菊紋」の種類!どんなものがあるのかを解説 菊花紋章 菊紋にはたくさんの種類がありますが、天皇家が使用している家紋は「菊花紋章」と呼ばれるものです。 「菊花紋」と呼ばれることもあります。 1869年より、正式にこの紋が天皇の家紋として使用されることになりました。 ここで注意したいのは、たとえ天皇家の血族であっても「宮家」は別に家紋があり、菊花紋章を使うことはできない、ということです。 この「菊花紋章」は、以下の旗にも使用されています ・天皇旗 ・摂政旗 ・皇太子旗 ・皇后旗、皇太后旗 ・皇太子旗、皇太孫旗 ・皇太子妃旗、皇太子孫妃旗 これを見る限り、次期天皇となる皇太子(東宮)も、菊花紋章を使用することができるようですね。 秋篠宮紋(菊栂) 今上(現在の天皇陛下)の次男であり、現時点で皇位継承権二位の秋篠宮文仁親王が使用している家紋です。 「秋篠宮紋」「菊栂紋」と呼ばれています。 秋篠宮家は、文仁親王が紀子さまと結婚されてからできた宮家です。 この家紋の成り立ちについては解りませんが、「栂」は松科の植物で、成長すると30メートル以上にもなるとか。 どのような由来があるのか、聞いてみたいですね。 十六菊(十六一重表菊) 日本のパスポートの表紙に描かれていることで有名なのが、「十六菊」。 天皇陛下が使用している「菊花紋章」とは少しデザインが異なります。 やはり、日本を象徴する紋として菊紋が採用されているようですね。 菊水 菊の花が、まるで川の流れに身を任せながらゆっくりと流れている様な、そんな美しい家紋が「菊水」です。 この「菊水」は、後醍醐天皇が楠木正成という武将に下賜した家紋です。 「菊水」は、天皇から家紋を下賜された楠木正成が、あまりに恐れ多いからと半分を水にしたことで生まれたと言われています。 当時、政治は鎌倉幕府を中心に行われており、都にいる天皇や武将たちはよく思われていませんでした。 その状況を見た後醍醐天皇は、自分たちが政治を取り仕切りたいと考え、倒幕を考えます。 これに楠木正成も賛同するのですが、計画はバレて後醍醐天皇は島流しになってしまいました。 それでも正成は後醍醐天皇の意思を全うしようと、足利尊氏らと協力してとうとう倒幕を果たします。 ところが、島流しから戻った後醍醐天皇は、天皇や公家たちに有利な政治をしようとしたために、尊氏たちは反発。 もちろん正成も後醍醐天皇に「武士たちのことも考えてほしい」と言いますが、聞いてもらえませんでした。 それでも正成は後醍醐天皇を支える道を選び、800人の軍で20万の尊氏の軍と激突、。 自害でこの世を去ります。 この直前に、正成は息子に菊水の家紋が入った短刀を渡したと言われています。 この「菊水」という家紋は、正成の後醍醐天皇に対する忠誠の証なのです。 南州菊 菊の花を、二つの葉が抱きしめている様な家紋「南洲菊」。 これは、西郷隆盛が明治天皇から下賜された家紋です。 この時代には、すでに菊紋は天皇家の紋とされ他での使用は制限されていましたが、西郷隆盛の働きを認めた明治天皇は、この家紋を西郷に下賜しています。 ですが、あまりに恐れ多いものであるためか、隆盛が亡くなったあとの西郷家では「南洲菊は隆盛のみのもの」とし、もとの「三つ葉菊」という家紋を使用しているそうです。 菊紋を使用した武将・著名人 武将 足利尊氏 室町幕府を開いたことで知られる足利尊氏ですが、後醍醐天皇に菊紋を下賜されています。 豊臣秀吉 豊臣秀吉と言えば「五七の桐」の家紋が非常に有名なのですが、天皇より菊紋も下賜されたと言われています。 秀吉はそれをとても喜び、調度品などに菊紋を入れていたとか。 その他 西郷隆盛 西郷隆盛は、明治天皇より「南洲菊」という家紋を下賜されました。 しかし、この家紋を使用する前には「三つ葉菊」という西郷家に伝わる家紋を使っています。 木戸孝允 西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と呼ばれている木戸孝允は「丸に三つ星紋」を使用。 夏目漱石 「吾輩は猫である」「こころ」「ぼっちゃん」などを執筆した文豪・夏目漱石も菊紋を使用していました。 漱石が使用していたのは「菊菱紋」という家紋です。

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