楠本高子。 楠本高子とは

郷土の医傑たち ~シーボルトの娘・楠本イネ~

楠本高子

晩年のイネと娘高子 1827年(文政10年)、医師であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと、であった瀧(1807年 - 1869年)の間に生まれる。 母の瀧(お滝)は商家の娘であったが、実家が没落し、源氏名「其扇(そのおうぎ、そのぎ)」として、日本人の出入りが極限られていたにてシーボルトお抱えの遊女となり、彼との間にとしてイネを出産した。 イネの出生地は銅座町で、シーボルト国外追放まで出島で居を持ち、当時の出島の家族団欒の様子がの絵画に残っている。 ところが父シーボルトは(文政11年)、国禁となる日本地図、門下生による数多くの日本国に関するオランダ語翻訳資料の国外持ち出しが発覚し()、イネが2歳の時に国外追放となった。 イネは、シーボルト門下で(現在の西予市宇和町)の町医者から医学の基礎を学び、から産科を学び、村田蔵六(後の)からはを学んだ。 (6年)からはから産科・病理学を学び、(2年)からはポンペの後任であるに学んだ。 後年、京都にて大村が襲撃された後にはボードウィンの治療のもと、これを看護しその最期を看取っている。 (安政5年)のによって追放処分が取り消され、(安政6年)に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学ぶ。 シーボルトは、長崎のに住居を構えて昔の門人やイネと交流し、日本研究を続け、(文久元年)には幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問なども講義している。 ドイツ人と日本人の間に生まれた女児として、 当時では稀な混血であったので差別を受けながらも [ ]宇和島藩主・から厚遇された。 宗城よりそれまでの「失本イネ」という名の改名を指示され、 楠本伊篤(くすもと いとく)と名を改める。 (明治4年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄、弟)の支援で東京は築地に開業したのち、の口添えにより御用掛となり、金100円を下賜されのの出産に立ち会う(葉室光子は死産の後死去)など、その医学技術は高く評価された。 異母弟ハインリヒとその妻の第一子の助産も彼女が担当した(その子は夭折)。 その後、(明治8年)に制度が始まり、女性であったイネには受験資格がなかったためと、墓所を守るため、東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷する。 (明治17年)、の門戸が女性にも開かれ、既に57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断し、イネはこの試験を受験しなかったとする通説があるが、当該試験は新たに開業を志すものを対象とした試験であったため、町医者として豊富な経験を持つイネは受験する必要がなかったというのが実情である。 この試験に合格し開業したが「日本初の女医」として話題になるが、あくまで国家試験に合格した女医一号であり、イネを含め、、、、、など多数の女性医者がすでに存在していた。 62歳の時、娘(タダ、後述)一家と同居のために長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。 以後は弟ハインリヒの世話となり余生を送った。 (明治36年)、鰻と西瓜の食べ合わせによる(医学的根拠はない)のため、ので死去した。 享年77。 墓所は長崎市にある。 なお、イネは生涯独身だったが、宗謙との間に儲けた娘・がいた。 タダ自身の手記によれば、イネは宗謙によって船中でされて妊娠した。 手記の中でいう船中とは、母たきが長崎に帰った際のから出ていたとされるの定期航路便を見送った船ということになるため、から下津井港を結ぶを指すと考えられる。 このため、は自著の中で、強姦自体はあったものの、船頭や他の乗客がいる中での船中強姦は現実的ではなかったのではないかと考察している。 タダの手記は以下のとおりである。 母イネト石井宗謙トノ関係ヲ申シマセウ.母イネハ,石井宗謙ヲ頼リテ医術ノ研究ニ従事スルコトニナリマシタ.祖母タキ(其扇)ハ,私ノ母イネノ落付具合ヲミル為ニ,石井ノ宅ヘ(長崎カラ岡山ニ)遙々タズネテ参リマシタ.而シテ母イネノ修行スルサマヲ見届ケ,漸ク安心致シマシテ天神丸ト云ウ船ニ乗ッテ長崎ヘ帰リマシタ.其際母イネハ,石井ト共ニ船ニ乗リマシテ,母(タキ)ヲ見送リマシテ,天神丸ガ帆ヲアゲテ出船ヲスル,母ハ石井ト二人帰リマス途中,船中デ石井ニ口説カレマシタガ,母ハ石井ヲキライマシテ,懐中ニシタ短刀ヲ以テ野獣ノヤウナ石井ヲ防ギマシタケレドモ,石井ノ暴力ニ抵抗デキズ,トウトウ処女ノ誇リヲ破ラレマシタ.母ハ一度石井宗謙ニ姦淫サレマシテカラ,其後ハ一度モ石井ト肉交ハアリマセンデシタ.母ハ,石井ヲ蛇蝎ノヤウニキラッテイタノデス.処ガ母ハ遂ニ妊娠イタシマシタ.而シテ私ヲ生ンダノデス.カウシタ因果デ,私ハ生マレマシタ.母ハ何モ天意デアラウ,天ガタダ子トシテ私ヲ授ケタノデアラウト,アキラメマシテ,私ヲタダト名ヅケマシタ.母ガ分娩イタシマシタ際ニハ,産婆ヲ使ワズ,自分デ臍ノ緒ヲ切ッタサウデス.母ハ私ヲ分娩イタシマシテ後,長崎ヘ帰リマシタ.母ガ出立ノ時ニ石井ハ見送リヲイタシマシタガ,母ハ人デナシノ石井ト大イニ恨ミ罵リマシタサウデス.母ガ石井ヲ厭フタコトハ並大抵ノ事デハゴザイマセンデシタ.母ハ石井ヲ甚ダ恨ンデヰマシタ」. — 山脇タカ、(「かつて慈恵に在学した興味ある人物 その一 シーボルトの曾孫・楠本周三」『高木兼寛の医学』東京慈恵会医科大学、2007年に掲載) その後、宗謙は師匠のシーボルトの娘に手をつけていたとして他のシーボルト門下生から非難され、イネは彼のことを激しく憎んだ。 彼女は未婚のまま一人出産し、生まれてきた私生児を「天がただで授けたもの」という意味をこめてタダと名付けたとされる。 後年、タダも母と同じく伊達宗城により改名を指示され、「高」と名乗った。 なお、娘であるはその美しい容貌から、後に明治の美人写真を見ていたが『』のや『』ののモデルにしたと言われている。 なお、高子も医師に強姦されて出産しており、親子2代にわたって悲劇に見舞われた。 日本での子孫は楠本家、米山家。 資料については叔父の子孫でシーボルト研究家のを中心に設立された、子孫及び研究者より資料を委託された、イネの師で鳴滝塾生であるの出身地愛媛県の資料館が研究を進めている。 イネの改姓改名について [ ] シーボルトが日本において「施福多」や「失以勃児杜」といった当て字を使用していたことから、イネがそこから「失」の字を拝借し、「失本」(しいもと、しもと)と名乗っていたとされ、の『シーボルト先生 其生涯及功業』ではイネが宇和島を訪れた際に伊達宗城が失本伊篤(姓を「失本」から「楠本」に、名を伊達の一字を与えて「伊篤」に)という姓名に改めさせたと記している。 しかし、『』やがイネに宛てた書簡などでは「矢本」となっており、そもそも「失本」という名乗りはしていなかったという可能性が指摘されている。 また、楠本姓や伊篤という名に関してもの館長を務めたは伊達宗城と出会う前より名乗っていたと指摘しており、イネが厚遇された伊達家への恩を強調し、先祖美化の意図をもって呉に語ったのではないかとする歴史家も存在する。 の『ふぉん・しいほるとの娘』の中ではイネが「志本」「矢本」という姓、「伊篤」という名を折々名乗ったとしており、シーボルトの「Si」、「bo」を転化させた「mo」、「d」の音「to」の三音を合わせたものを姓とし、「i」と「d」の発音のままに「イト」を充てた名を使用し、矢本(あるいは志本)伊篤はどちらも父であるシーボルトから着想を得た姓名だったのではないかとしている。 異名について [ ] 楠本イネの存命中において、「オランダおいね」という呼称が存在したことを裏付ける資料は存在しておらず、宇神幸男は1970年3月30日から9月26日までTBSポーラテレビ小説として放送されたテレビタイトル『』が初出であり、同作品の脚本を手掛けたの造語であるとしている。 その後、シーボルトの玄孫にあたるが来日し、シーボルトの足跡を辿ったことを報じた新聞のなかで楠本イネに対して「オランダおいね」という名称が充てられるなど、異名として一般的に普及したと見られている。 イネが登場する作品 [ ] 小説• 新潮文庫ほか、主人公に恋するヒロインとして描かれている• 『楠本いね』(短編小説、『日本医家伝』収録)。 「自選作品集」に収録• 吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』(長編小説、主人公)。 新版は、(上下)、岩波書店「歴史小説集成6」 漫画• 『オランダお稲』 - 28• 『』『風雲児たち 幕末編』• 、シナリオ:『』 - 『』()にて偏月連載( -) テレビドラマ• 『』( 、、演:)• 『』( 、、演:)• 『』(、1989年、演:)• 『おいね 父の名はシーボルト』(NHK、、脚本、演:) ミュージカル• 『幕末ガール』(、脚本・演出・作詞/、演:)• 『オランダおイネあじさい物語』(、開局60周年記念市民ミュージカル、演:) 関連人物 [ ]• 関連文献 [ ]• 『シーボルト先生 その生涯及び功業』吐鳳堂書店、1926年10月4日、再版。 呉秀三『シーボルト先生 その生涯及び功業』第1巻、 解説、〈 103〉、1967年11月。 呉秀三『シーボルト先生 その生涯及び功業』第2巻、岩生成一 解説、平凡社〈東洋文庫 115〉、1968年5月。 呉秀三『シーボルト先生 その生涯及び功業』第3巻、平凡社〈東洋文庫 117〉、1968年6月。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• コトバンク. 朝日新聞社. 2019年4月10日閲覧。 236• 宇神幸男『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』p. 59-p. 2016年1月21日閲覧。 宇神幸男『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』p. 2015年6月10日時点のよりアーカイブ。 2008年8月30日閲覧。 139• 52-p. 53 外部リンク [ ]• 朝日日本歴史人物事典『』 -.

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歴史上のガチ美人な女たちまとめ│れきし上の人物.com

楠本高子

概要 [ ] 高子が後年書いた手記によると、高子はイネが、師、石井宗謙に関係を強要されて宿した娘であり(詳細は「」の項参照)、当初は天が ただで授けたものであろう、というあきらめの境地から「タダ子」とよばれていた。 幼少期の初恋は檜野家の丹治太という名の藩士である。 、13歳の時までの祖母・お滝の元で育つ。 幼少時はや、など芸事に熱心であり、医者を嗣ぐことを期待していたイネを嘆かせていたという。 、母の師・の縁によりのとしてを始める。 そして翌(慶応2年)、と結婚する。 三瀬はシーボルト門下の医者で、二宮敬作の甥に当たった。 (明治10年)に夫・三瀬諸淵に先立たれた後、異母兄・の元でを学んだ。 しかし、その中で医師・に船中で強姦され 、男児(亡き夫三瀬周三にちなんで、周三と命名。 後にイネの養子となり、楠本家を継ぐ)を生む事態となり、医業の道は断念した。 失意の高子であったが、その後にかねてより高子に求婚していた医師・山脇泰助と再婚した。 山脇との間に一男二女を授かるが、結婚7年目に山脇は病死した。 その後は叔父のの世話を受け、東京で母のイネと共に暮らした。 以後は幼少時に熱心だった芸事の教授をして生計を立てていた。 親族 [ ] 高子には2男2女がいる。 最初の夫・三瀬諸淵との間に子はいなかった。 第一子の長男・楠本周三は、東京慈恵医院医学専門学校にて学び、医師となる。 再婚した山脇泰輔との間に、第二子にあたる長男・初(はじめ) 明治14年7月1日午後1時10分、生後8か月で夭折 、長女・滝 既婚、40歳頃死去 、次女・タネ(種、米山家に嫁ぐ、105歳にて永眠 がいる。 長女の滝の死について、楠本高子による『山脇タカ子談』よると「39カ40歳ノ頃死ニマシタ、気ガ狂イマシテ」と記されている。 タネの孫にサンチェス聖子、楠本周三の息子に楠本周篤、楠本周篤の妹の孫に(医師、選手、会員)がいる。 その他 [ ]• (平成24年)9月現在、本人の手記が公開されている。 その美しい容貌は、が『』のや『』ののモデルにしたと言われている。 正確に言うと、メーテルの造形は松本がオリジナルのものとして造りあげていたが、その後、ある機会に楠本高子の肖像写真を見て「この女性こそ、自分がずっと思い描いていた女性だ!」と衝撃を受けた。 日本での子孫は楠本家(第一子楠本周三の系統)、米山家(第四子米山種の系統)。 資料については叔父の子孫でシーボルト研究家のを中心に設立された、子孫及び研究者より資料を委託された、稲の恩師で鳴滝塾生であるの出身地愛媛県の資料館が研究を進めている。 評論家のは、晩年の高子に会って話を聞いている。 当時、高子は次女の米山種のもとに同居していた、その都内の住まいを羽仁は訪ねている。 その折の話をもとに、羽仁は「シーボルトの娘たち」を上梓した。 この著作は平成に入ってから再刊されている。 脚注 [ ].

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8月26日【昭和vs平成アニメランキング】の「銀河鉄道999」の『メーテル』は、楠木高子だった!?

楠本高子

このイネさんもまた、父同様、歴史に名を残した方で、実は、西洋医学による、日本人初の女性の産科医と言われています。 シーボルトが渡航禁止令を受けていた時に、日本人残した弟子に送った西洋医学の本や資料に触れていたのかもしれません。 西洋人を父に持つイネは、時折、差別を受けながらも、産科や病理学を学び、追放処分が取り消され、父シーボルトが再来日してからは、父からも西洋医学を学んだそうです。 その高い医学技術が評価され、宮内省御用掛(宮内省などの役所の命を受けて任務にあたる職)となり、皇室の出産にも立ち会うほどになりました。 楠本高子(タカコ) イネには娘がいました。 その名を【楠本高子(タカコ)】と言います。 シーボルトの孫娘にあたります。 検索していただき、この方の写真を見るとお分かりいただけると思いますが、非常に容姿端麗です。 母のイネも鼻筋の通った美人だったように思いますが、高子の方は、今時のオーラを感じます。 ドラマや映画に出れば主役顔という感じですね。 (あくまでも1枚の写真から受けた印象ですので実際はどうなんでしょうね。 ) 楠本高子で検索すると、どういうわけか、松本零士先生の銀河鉄道999に登場するメーテルが出てきます。 理由を調べてみますと、メーテルのモデルとなったのが、この楠本高子さんだというのです。 実際は、高子さんの写真を見てからメーテルを作り出したのではなく、松本先生の作り上げたメーテルのイメージに高子さんの容姿がぴったりだったということのようですね。 ただちょっと調べてみると、メーテルのモデルとなった人は何人もいて、松本先生の中でも、時期によってちょこちょこ変わっているようでして、高子さんはそのうちの一人みたいです。 (他にも、八千草薫さんとか加藤登紀子さんとか上がっていました。 ) ちなみに高子さんは、ちょこっと産婦人科で医学をかじったようですが、母や父のようにどっぷりとその道へは進まず、幼少のころにハマった芸事(お琴や三味線、舞など)で生計を立てて暮らしたそうですよ。

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