天気の子 考察。 セカイ系を視点とした映画『天気の子』の考察。新海作品の主人公たちが選んできた「世界」と「彼女」の二択│ワークドットライフ

「君の名は。」と「天気の子」は同じ世界線?時系列をまとめてパラレルワールドを検証!

天気の子 考察

島出身の家出少年・帆高(ほだか)は、船に乗って東京にやってくる。 仕事が見つからず、帆高は新宿の街に身を置きながら、漫画喫茶やマクドナルドを転々としていた(このとき帆高はひょんなことから拳銃を拾っている)。 身も心も疲れ切っていた帆高は、マクドナルドに入り浸りながら、船の中である一枚の名刺を渡されていたことを思い出す。 東京にやってくる船の上で危険になっていたところを、一人の男性に助けられていたのだ。 それが、オカルト記事を専門に扱う会社の社長、須賀だった。 そんなことをぼんやり考えていると、ふいにマクドナルドの店員からビックマックをもらう。 転がり込むようにして須賀さんのところに行った帆高は、須賀の姪、夏美と出会う。 帆高はそこで、オカルトライター兼雑用として須賀と夏美と共に働くことになる。 ある日、帆高は路地裏で一人の少女を助ける。 それがあの日のマクドナルドの店員、陽菜(ひな)だった。 東京は数十年に一度の異常気象で雨続きだった。 陽菜には天候を変える力があった。 そのことを知った帆高は、陽菜と凪(陽菜の弟)と共に「晴れ女ビジネス」を始める。 とある花火大会に陽菜の姿が祈りを捧げている様子がテレビに写ったことがきっかけで、晴れ女ビジネスへの依頼が殺到した。 そのことが原因となり、晴れ女ビジネスは打ち止めとなった。 夏美は、晴れ女ビジネスで出会ったある依頼主に、こんな話を聞いていた。 『天気の巫女は人柱である——』 つまり、陽菜は天気の巫女であり、やがて天に飲み込まれてしまう、と。 夏美はそのことを、陽菜に告げる。 実際、陽菜は雨から晴れにするごとに、身体が透明になりつつあった。 ——警察が帆高を探していた。 行方不明者届が出ていた。 おまけに拳銃所持の罪も含まれていた。 須賀は誘拐犯の汚名を着せられそうになっている(須賀さんは帆高にクビ宣告をした)し、弟と二人暮らしをしていた陽菜にも問題が出てきていた。 帆高は、陽菜と凪と3人で逃げることにする。 東京の街の異常気象がよりひどくなっていた。 空と陽菜が繋がっていた。 ある日、陽菜は帆高の目の前で姿を消してしまう。 と同時に、凪と帆高も警察に保護されてしまう。 帆高は警察から逃げ、陽菜を探すことを決意する。 須賀、夏美、凪、いろいろな人の協力を経て、帆高は陽菜と再開する。 陽菜は空の上にいた。 帆高は、天気よりも陽菜を選んだ。 雨はそれから三年間止むことなく、今も振り続けている。 とまぁ、ざっくりまとめるとこんな感じのストーリーですね。 小説版の特徴としては、登場人物のそれぞれの視点で語られている点でしょうか。 それぞれのキャラクターの心境がよりわかりやすいと感じましたし、「読み手がどの登場人物の視点で物語を捉えるか?」という見方もできるので、感情移入もしやすいと思います。 小説『天気の子』の感想と考察 物語としては、人によっては「ハッピーエンドじゃない」という感想を抱いたりするのかなあ、と。 俗に言う、ってやつでしょうか。 まあ、事実、帆高は異常気象を止めることよりも陽菜を優先しましたし、「その他大勢」よりも「たった一人の人間」を選んだってことですから。 世界のため、人類のため、と主人公が自らの命をなげうつ作品とは、ここが決定的に違う点ですね。 結局、異常気象は収まらず、ひたすらに続く雨に伴う悪影響は計り知れません。 それでも——、それでも帆高は陽菜を選んだんです。 陽菜のため、そして、他でもない自分のために。 単純に、「女の子は助かったよ。 異常気象もなくなったよ」というハッピーエンドでもなければ、「女の子はいなくなっちゃった。 でも、天気は回復したよ」みたいな話でもない。 見る人、読む人にとってはかなり大きく作品に対する感じ方が違うんじゃないかな、って思います。 曖昧さを肯定するメッセージ 正義と悪に分けたがるのが人間って生き物だと思うんですが、世の中ってグレーなことの方が多いんじゃないでしょうか。 楽しい人がいれば、その裏で苦しい思いをしている人もいるわけで。 自分の立ち位置が変われば、物事に対する考え方なんて一瞬でひっくり返っちゃうわけですし、正しいこと、正しくないこと、なんてのは、あってないようなものなんじゃないんでしょうか。 なんというか、この『天気の子』という作品は、そういった世の中に溢れてるグレーな部分に、そっと「それでいいんじゃないかな」と呼びかけているようにも思えたんですよね。 どんな人にも自分だけの世界はあって、もしかしたら自分が気づかないだけで、自分を応援してくれる人、自分の世界を認めてくれる人がいるんだよ、って。 小説の最後、RADWIMPSの野田洋次郎さんの「解説」にこんな言葉があります。 すべての人が、皆自分だけの世界を持ち、その世界の中で必死に生きている。 役割を持ち、何かしらの責任を負い、自分というたった一つの命を今日から明日へと日々運んでいく。 (小説『天気の子』, p308) これだけを見れば、「何を当たり前のことを……」と思ってしまいそうですが、当たり前だからこそ忘れがちなんですよね。 きっと、とても大事なことなのに。 手を合わせて晴れることを祈ることもあるだろうし、反対に「このままずっと雨が続けばいいのに」なんて思ったりすることもあると思うんです。 それぐらい人間なんて生き物は自分勝手だし、わがままだし、でも、それって「自分の世界を守っていることに変わりないよな」とも思うんです。 雨が降れば傘を差す。 それぐらい、自分の世界を守ることも当たり前なんじゃないかな、って。 僕自信が不完全であるのと同じように、大人たちもまた等しく不完全なのだ。 皆がその不完全さを抱えたまま、ごつごつと時にぶつかりながら生きているのだ。 (小説『天気の子』, p275) 拳銃の意味 物語には帆高が拳銃をぶっ放すシーンが出てきます。 それは間違った方法なのかもしれないけれど、帆高は自分の守りたいものを守るために、引き金を引いた。 これが正しいことなのか、間違ったことなのか、それはわかりません。 もちろん、人を傷つける行為はいけないことです。 いくら大切なものを守るためとはいえ、他の誰かを傷つけていいわけじゃない。 僕が思うに、この拳銃の描写は、「言いたくても言えない、守りたくても守れない」そんな気持ちが、たくさん、たくさん詰まった「心の叫び」なんじゃないかと、そう思うんですよ。 世の中、好き勝手にものを言って、自由気ままに立ち回れるほど「できた世界じゃない」わけです。 何をしても、何を言っても許されるのであれば、拳銃なんて必要ありません。 でも、現代の日本は見方によっては、相当不自由な場所だと思うんですよ。 一見、インターネットは普及して、生活は便利になったけれど、その一方で「不自由」になった部分も確かにあるんじゃないかな、と。 仕事や家族の問題、悩み、お金、経済、政治、社会、とかとか。 そういった鬱憤、鬱々とした感情、言葉では到底表しきれない気持ちが、あの「拳銃」っていうものに取って代わったのかもしれませんね。 ま、でも結局、拳銃なんて必要なかった。 その気になれば、いつだって人は自分の世界を変えられる。 そんなメッセージも込められているんじゃないかな、って思いました。 皆、本当は分かっているくせに——と、走りながら僕は思う。 皆、なにかを踏みつけて生きているくせに。 誰かの犠牲の上じゃないと生きられないくせに。 陽菜さんと引き換えに青空を手に入れたくせに。 そしてそれは、僕も同じだ。 (小説『天気の子』, p247) 外との繋がり 『天気の子』を読了したあと、なぜだか頭に「繋がり」という言葉がとても印象深く残ってたんですよね。 島から飛び出してきた帆高は船で須賀さんに助けられ、その繋がりで須賀さんのところで働き、夏美さんとも出会った。 新宿という街で身も心もボロボロになりながら、陽菜と出会い、晴れ女ビジネスでたくさんの人と出会った。 天と陽菜も繋がっていた。 人間、一人で生きていくなんてことはできないわけだし、まあるい輪っかの中にいる以上、つまりこの世で生きている以上、繋がりを完全に断ち切ることはできません。 自分が生きている以上、どこかに悪い影響を及ぼしている可能性だってゼロじゃない。 むしろ、この世界になんの影響も与えていない人間なんて一人だっていやしないんです。 事実、帆高も陽菜も、異常気象の原因を知っていてなお"生きること"を選んだ。 この『天気の子』は、なにも「曖昧さを全肯定して、君の好きに生きればいいじゃない」っていうことを伝えたいわけじゃないと思うんですよ。 空想の世界に逃げ込んでもいいじゃん、みたいな無責任なものでもないと思うんです。 誰かが傷つくことを知って、自分の中に守りたいなにかがあるということを知って、弱さを知って、理不尽さを知って、それでもなお"自分のためになにかを選び取る"ことこそが大事なんじゃないかな、と。 須賀さんの言葉にこんなのがありました。 妄想なんかしてねえで、現実を見ろよ現実を。 いいか、若い奴は勘違いしてるけど、自分の内側なんかだらだら眺めててもそこにはなんにもねえの。 大事なことはぜんぶ外側にあるの。 自分を見ねえで人を見ろよ。 どんだけ自分が特別だと思ってんだよ。 (小説『天気の子』, p284) 『自分を見ねえで人を見ろよ。 』という言葉にも、人との繋がりに対する強いなにかを感じましたね。 うーん、須賀さんかっこいいなぁ。 異常気象=災害=津波? 降り続ける雨、沈む街、異常気象。 ふと、東日本大震災のことを思い出した。 もしかしたら、『天気の子』には、2011年のあの大災害によって起きた津波のことも含まれているのかもしれません。 もちろんそれだけじゃなくて、政治だったり、マスコミだったり、教育の現場だったり、なんというか、そういったものすべてに対して問題提起をしているんじゃないかなぁ、と。 『天気の子』の中で帆高が選びとった道はあくまで答えのひとつにしか過ぎなくて、本当は、もっと一人ひとりに違う答えがあっていいし、そのためには一人ひとりがきちんと問題と向き合って、自分なりに答えを導いていくしかないと思うんです。 なんていうか、僕は、そういう感想を抱きました。 「こういう物語があったよ。 君はどう思う? 君だったらどんな道を選ぶ?」っていう問題提起がなされているように、そう感じるんです。 これは別に新海誠作品に限った話ではなくて、物語全般、アニメや小説、映画に関して、同じことが言えるかもしれませんね。 オカルトに関しての考察 作中での帆高と須賀さんとのやり取り。 帆高「(中略)晴れ女とか雨女とかって、ぜんぶ『そんな気がする』っていう認知バイアスですよね? いるわけないじゃないですか!」 須賀「こっちはそんなのぜんぶ分かっててエンタメを提供してんの。 そんで読者もぜんぶ分かってて読んでんの。 社会の娯楽を舐めんじゃねえよ」 (小説『天気の子』, p49-50) オカルトという非現実、幻のようなものに携わっていながらも、「人を見ろよ」と言う須賀さん。 きっと、本当か、本当じゃないか、なんてことはどうだっていいことなんですよ。 それぞれが楽しみたいように楽しむ、それがオカルトだって僕は思います。 幽霊がいるかいないかの議論は、あくまで娯楽であって、互いを貶し合って、人格否定をしながら進めるものじゃない。 エンタメにおいて、それが嘘だろうが、真実だろうが、そんなのは二の次で、もっとも重要なのは「楽しめるか、楽しめないか」だけ。 いたらいいね、ぐらいのテンションでいいと思うんです。 きっと、自分もそうだと思う。 なんだかんだ言って、自分が一番大切で、なんだかんだ自分の大切なものを守るためなら、他の人間がどうなろうとかまわないって思ってる。 たぶん、それは紛れもない事実。 それぐらいは、認めたってバチは当たらないと思う。 感情は世界に影響を及ぼすか お天気ビジネスの口コミレビューに文章に、以下のようなものがありました。 こんな話知ってるか? 人間の感情が乱数発生器に影響を与えるって話。 それがさ、大災害とか大イベントとか、大勢の人間の感情が大きく乱れるようなことがあると、その瞬間だけ確率がガラッと変わっちまうそうなんだ。 実際にそういう現象が世界中で確認されていてさ。 それで思ったんだな。 人間の願いとか祈りとかってのは、現実に世界を変える力があるんじゃないか。 俺たちの脳みそは頭蓋骨の中で完結してるわけじゃなくて、なんらかの形で世界全体と繋がってるんじゃないか。 スマホとクラウドが見えないのに繋がってるみたいにさ。 (小説『天気の子』, p117) これもオカルトといえばオカルトのような話で、まあ、実際、量子力学って分野では「人間の感情が世界に与える影響」についてマジメに研究されてます。 超常現象も時が経てば、それはいずれ本物にだってなりうるんです。 ま、誰しも非日常は心のどこかで求めていて、それが作中の「オカルト」であったり、乱数発生器の話であったりすると思うんです。 現実を受け入れながら、どこかで大切に持ってる期待感や超常的なものに対する欲求を、物語を通して投影してる。 そんな感じもしましたね。 『天気の子』と『君の名は。 』との関連性 作中に帆高が陽菜に指輪を買うシーンが出てくるんですけど、そこにこんな描写がありました。 「がんばってくださいね」と最後に優しく微笑まれ、ネームプレートの「宮水」という文字を見ながら、僕は深く頭を下げた。 (小説『天気の子』, p151)• 田端:陽菜が住んでいる場所• 新宿(歌舞伎町):帆高が家出して「東京ならここだろ」と来た街• 六本木ヒルズの屋上スカイデッキ:陽菜が花火大会のために「晴れ」を願ったところ 陽菜が天気を操る力を手に入れた場所のモデルとなったのは、「朝日稲荷神社」が一番有力(屋上に神社がある)だと言われてます。 作中では廃ビルってことになってますね。 朝日稲荷神社は東京都中央区銀座3丁目にあるみたいです。 聖地に関しては劇場版と照らし合わせて、まだまだ調査が必要みたいですね。 小説『天気の子』はひらすらに優しい作品だった 僕にとって、「雨」は平和の象徴です。 傘を持たずに、雨に当たると、無意識に手を広げて雨を感じようとしますよね。 世界中の皆がいっせいにあのポーズを取ったら平和になると思いませんか? とまあ、それはさておき、『天気の子』を読んでしょっぱなに思ったのは、僕と共通点が多い作品だなぁ、ってことですね。 僕のハンドルネーム(あめぎ)で、僕自身「雨」には強い思い入れがあるし、物語の主人公・帆高はオカルトライターってことで、ブロガーである僕(オカルトブロガー)は無意識に自分と帆高を重ねてしまうのです。 僕の名前には『君の涙を見たくなくて僕は雨を降らしたよ 君の笑った顔が見たくて僕は飴を降らしたよ』っていう、野田洋次郎もびっくりの意味が込められてたりします — あめぎ ameyohure 新宿という街 僕は高校生の頃から「新宿」という街に頻繁に通っていて、それこそ歌舞伎町の地下ライブハウスで何年もバンド活動をしてましたし、専門学校時代も新宿の学校に通ってました。 なにも知らずに、傷つきながらも懸命に生きようとする帆高の姿と、過去の自分を勝手に重ねて「なつかしいなあ」と感傷に浸っていたり。 もしかしたら、新海誠作品はより多くの人が「自分と共通点が多い作品だなぁ」と感じられるようなものになっているのかもしれません。 確証はないですが、ふとそんな気がしました。

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100倍深まる!【天気の子〈考察&謎解き〉】新海誠が伝えたかったメッセージとは?

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感想 *ネタバレあり 今回も一目で新海作品とわかるほど美しい映像が楽しめるが、内容はめざらしく 残酷。 また、わりと はっきりとしたメタファーを用いているところも新海作品としては珍しい。 以下考察。 本作の主題は エゴと代償。 物語の前提として、日本は異常気象に見舞われている。 人間はその異常気象を疎み、晴れを願っている。 本来人間にはどうすることもできない自然現象を疎ましく思い、どうにかコントロールしたいと願う 人間のエゴが冒頭から作品全体を覆っている。 そこに天気をコントロールし、100%晴れをもたらすことができるヒロインの陽菜が登場する。 彼女は 代価をもらうことで人間のエゴを叶えるシステムのメタファー。 システムには必ず犠牲が伴い、いつか終わりが訪れる。 陽菜の存在はそれを象徴している。 美しい映像と爽やかな人物造形からつい見逃してしまいがちだが、本作の登場人物たちは 胸くそ悪くなるほどにエゴイスティックだ。 特に主人公の帆高。 親の心配を顧みず家出し、たまたま見かけた陽菜にはおせっかい、拾った拳銃を届け出ずに所持、その上発砲(護身とはいえ)。 陽菜に不思議な力があると知ると、彼女の気持ちも確認せずに すぐさまマネタイズに走る。 また、エゴではないが何かと知恵袋で質問するところも主体性がない。 正直、相当ヤバい人間だと思うのだが、いかんせん作画が爽やかで愛嬌があるので騙されてしまう。 この帆高が最後の最後にとてつもないエゴを発揮させるのだが、それは後で説明する。 須賀については誰しも納得できるだろう。 命の恩人のポジションを獲得すると、その代償として高校生に夕飯をおごらせる。 立場を利用して格安でバイトに雇う。 陽菜の力を知って娘との面会に利用、その後 陽菜が異常気象を払うことで犠牲になり消えると分かっても、その方が自分と娘に都合がいいからと放置。 また、陽菜に晴れを依頼する人たちも、自然現象を意のままに操りたいと願っている点でやはりエゴイスティックな人間であると言えるだろう。 陽菜はそんな人間と自然の間に存在するシステムだと述べた。 システムには必ず犠牲が伴い、いずれ崩壊する。 人間はその犠牲に目を瞑り、なかったことにしてシステムの恩恵を受け、エゴを満足させる。 陽菜に晴れを依頼した人達は、陽菜が犠牲になっていることすら知らない。 安くて便利な商品を手にした人が誰かの犠牲なんて考えもしないように。 ただ、陽菜を天気の子にした帆高は彼女が自身を犠牲にし、人々の願いを叶えてきたことを知る。 そこで帆高は システムの犠牲者としての陽菜を救うため動き出す。 すると陽菜自体は延命されるが、今度は自然が猛威を振るい、 異常気象となって人々のエゴそのもの(生活、仕事、インフラ等)を飲み込んでいく。 天気を操れる陽菜は、帆高の気持ちを理解しながらも、システムの犠牲という自らの使命を全うし、異常気象を止めて人々を救う。 普通の作品ならここで 「僕らは常に、誰かの犠牲の上に生きている…」というメッセージで締めるだろう。 しかし、 新海監督はそんなぬるいところでは終わらず、主人公帆高のエゴをさらに推し進めていく。 帆高はシステムの犠牲となり異常気象を止めた陽菜を救いにいく。 恐らく彼は陽菜が救われたときまた異常気象が発生することを知っていたのだろう。 それでも帆高は警察の逮捕から逃れ、恩人の須賀にも逆らってあの鳥居を目指す。 ( ちなみに、警察は完全にまっとうな理由で帆高を追っている。 逃亡する帆高の方が100%悪い)。 陽菜を助けに向かう帆高は情熱的で感動を呼ぶ流れだが、よく考えてみればこれもまた 陽菜の意志とは無関係で(陽菜は自分の意志で犠牲者となった)、帆高はただ 自分の好きな女に消えて欲しくないというエゴで動いているにすぎない。 システムの犠牲者に(不本意とはいえ)既に諦めの気持ちがあり、そのことで明らかに何千何万の命が救われるとわかっていても自分の気持ちを押し通す帆高に共感はできない。 そこで流れる主題歌「愛にできることはまだあるかい」が、あまりにも意地悪な皮肉にしか聞こえない。 帆高の暴走は愛と呼んでいいのだろうか? そうして陽菜を救った帆高はなんと陽菜にもエゴを勧める。 他人も、街もどうなってもいいから自分のために祈れと。 その結果、 異常気象は再発、3年も雨が降り止まず、東京は水没。 人命や都市機能、経済にどれだけの損失が出たかは計り知れない。 そんなことを気にする様子もなく、帆高は自分の選択を 「大丈夫だ!」と言う。 どこまでエゴイストなんだろうか? 恐らくこの「大丈夫だ!」は帆高の台詞というよりは、帆高を通して若者を観る新海監督の台詞だろう。 ここまでエゴイスティックに生きて、世界をかき回しても大丈夫なんだよ、と。 若者には響くのだろうか? 40代の自分にはさすがに響かなかった。 そのことがちょっと寂しく感じた。 本作の構造として、救いがどこにも存在しない。 1を救えば多が犠牲となり、多を救えば1が犠牲となる。 多くの答えがある中で、主人公に1を救いにいかせ、多の犠牲も描くには相当な覚悟が要っただろう。 私見だが、新海監督ひょっとして「君の名は」でさんざん童貞だの青臭いだのと批判されて怒ったんじゃないか? 僕だってここまでできるんだぞ! と己の覚悟を見せたのが本作のような気がする。 これだけエゴに突き動かされた帆高に、最後の最後で 社会と和解させなかったのも偉いと思った。 これだけ好き勝手やらせて、 異常気象は数ヶ月で終わり、またいつもの東京に戻った、陽菜は時々気まぐれに晴れをもたらしている……なんてぬるい終わり方をされていたら、新海作品は二度と観ないだろう。 本作を観て、改めて新海監督が 物語りに誠実な作家だと安心した。 書き忘れたが、 キャラのテンプレ感は次回はなんとかしてほしい。 帆高と陽菜が瀧と三葉にしか見えなかった。 【広告】.

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【ネタバレ感想考察】「天気の子」を君の名は。嫌いがみた結果|愛が歌われ尽くした世界で描かれた現代人への応援歌

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2箇所目は、 多分フリーマーケットで晴れになったシーンで登場しています。 (こちらは自分自身の目で確かめられていません) あらすじ(ネタバレ含む) ヒロイン(陽菜)が母親を病院で看病をしているシーンからスタートする。 母親と一緒にまた、青空の下を歩きたいと願っていた陽菜は、病院の外に一つだけ日が差している建物に気づく。 陽菜は、その建物に向かい日が差している屋上には1つの鳥居があった。 彼女は、願いながらその鳥居をくぐったー その後、主人公(帆高)が、離島の実家から家出をする為にフェリーに乗り東京へ向かうシーンへ。 フェリーに乗っている最中に突然の豪雨に巻き込まれ、フェリーから飛ばされる所を 須賀圭介に助けられる。 東京で困った事があればと名刺をもらう。 東京新宿で生計を立てようと安易な考えで家出をした、 帆高だったが 現実は甘くなかった。 バイト先も見つからず途方にくれていた穂高はフェリーで助けられた須賀圭介の存在を思い出す。 お金に困っている陽奈と野外フリーマーケット・結婚式・運動会の当日など晴れて欲しいに必ず晴れにさせるという 晴れ女として生活費を稼いでいく事になる。 天気を操る事について、何も疑問に感じていなかった帆高と陽菜だったが実は大きな代償が・・・ 結末 気象観測史上最悪の8月の天候に見舞われた東京(豪雨はもちろん、雪まで降ってます) 陽菜は考えた結果、 人柱になる事を決意し、誕生日を迎えた当日に穂高の前から姿を消してしまうのでした。 帆高は、陽菜が能力を手に入れた 雑居ビルの屋上にある鳥居の存在を思い出し、陽菜を天から救い出す為に鳥居に向かう事になる。 最後に、帆高は陽菜を救う事が出来るが警察に取り押さえられ離島に戻されてしまう。 帆高は高校卒業まで保護観察処分で東京に行けず3年間離島で過ごす事になる。 一方、東京は人柱(陽菜)が居なくなった事で、当然の代償として東京に豪雨が発生する。 その雨は降り止む事が無くなかった。 3年間経った今でも東京に振り続け結果として東京の3分の1が沈没してしまった。 卒業式の当日に帆高は陽菜に会いに東京に向かう。 東京が姿を変えてしまったのは自分のせいだと、悲しむ穂高だったが、その事実を知っているのは穂高と陽菜の2人だけ。 3年ぶりに再会する須賀圭介に、その事実を伝えるが信じることは無かった。 帰る間際に須賀圭介が一言帆高に 「おい。 まあ気にすんなよ。 世界なんてさ、どうせもともと狂ってるんだから。 」 陽菜に会いに行こうと決意する穂高。 何と伝えればいいのか? 世界なんて最初っから狂っていた。 この世界がこうなのはだから誰のせいでも無いんだ。 陽菜に再会する穂高。 再開した瞬間ー 違う。 やっぱり違う。 あの時、僕らは僕たちは確かに世界を変えたんだ! 僕は選んだんだ!あの人を!この世界を!ここで生きていく事を! 再会を喜ぶ2人 「うん。 陽奈さん僕たちはきっと大丈夫だ!」 最後に 個人的な感想が多かったと思いますので、あくまでも参考程度に見ていただけたらと思います。 関連記事も良かったら見てください! 新開誠監督作品を見返すなら断然 U-NEXTがオススメです。 ぼくも利用しています。

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