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この疑問の目次• 賃貸物件の専有面積ってどの部分? 専有面積とは 部屋の広さを示す面積は専有面積と呼ばれ、借主が個人的に使ってもいいスペースとなります。 専有面積には壁芯面積と内法面積があり、壁芯面積は壁の中心線を結んだ内側の面積で、内法面積は壁の内側の面積です。 物件の同じ部屋でも壁芯面積と内法面積では専有面積の値が変わってきます。 壁芯面積は建築基準法で使われる面積で、内法面積は不動産登記法で使われる面積となっており、基本的に賃貸物件の広告で使われているのは壁芯面積になります。 専有面積に含まれないのは? 専有面積にはクローゼットなどの収納スペースやトイレなどは含まれますが、バルコニーやロフトなどは含まれません。 バルコニーは部屋と見なされず共有部分扱いとなっており、ロフトは屋根裏の空間扱いとなるので部屋の面積を示す専有面積に含まれないのです。 そのためロフト付き賃貸物件というのは平米数だけ見ると狭く感じますが、ロフトの分使えるスペースは意外と広いのです。 1平米何畳? 物件情報には平米数で表示されていても、間取り図には畳数で書かれていることがあり、混乱することもあるでしょう。 1畳とは畳1枚の大きさという意味なのですが、畳の大きさというのは地方によって若干の違いがあり、不動産会社同士でも1畳の大きさが異なることがあります。 そこで今回は公正取引協議会の定めた計算式で平米数を求めてみましょう。 62平米=1畳 10平米=6. 17畳 15平米=9. 25畳 20平米=12. 34畳 25平米=15. 43畳 学生の一人暮らしだったらどれくらいの面積がおすすめ? 手ごろな家賃に住みたいなら15㎡~20㎡がおすすめ! 学生の一人暮らしとなると、なるべく家賃を抑えたいと思う人も多いことでしょう。 家賃を抑えたいのなら部屋の広さは20㎡以下に抑えることをおすすめします。 東京都にある池袋駅周辺の家賃相場では15㎡~20㎡の家賃相場はおおよそ6万円~8万円前後、25㎡を越えると7万円~10万円を超えてくる物件もあるので学生には家賃の支払いが難しくなってくるでしょう。 女性の一人暮らしだったらどれくらいの面積がおすすめ? 女性の方は男性よりもファッションや趣味にお金をかける人が多く、物が多くなりがちです。 そのため20㎡といった部屋の大きさでは足りず、25㎡~30㎡は欲しいところ。 池袋駅周辺では7万円~10万円程度となっています。 古い物件ならば7万円程度で借りられるものもありますが、バス・トイレ別などの条件を付けていくと8万円や9万円を超えてきてしまいます。 色々な条件はほしいところですが、自身の支払える予算内に抑えめるようにしましょう。 30代の一人暮らしだったらどれくらいの面積がおすすめ? 30代にもなると、部屋のインテリアや広さにこだわりを持つ人も増えてくることでしょう。 また、収入も20代と比較して多いと思いますので、30㎡を超える部屋に住むこともできるかと思います。 間取りも1Rや1Kなどの単身者向けの物件のみならず、1LDKや2LDKといった広い部屋を借りられる人も出てくるのではないでしょうか。 趣味のスペースが欲しい人は35㎡以上などの広い部屋を借りるなど、個人個人のライフスタイルに合った部屋を借りてみてはいかがでしょうか。 自分の生活スタイルにあわせて部屋の広さを考えよう 近年では「ミニマムライフ」と呼ばれる物をあまり持たず、シンプルな暮らしをする人が増えてきています。 必要最低限の家具家電しか持たず、服飾品もほとんど持たないことから、広い部屋のスペースは必要なく、15㎡程度でも十分暮らしていけるようです。 このように人のライフスタイルによって必要となってくる部屋の大きさというのは変わっていきますので、自分の生活を省みて、どのくらいの部屋の大きさが必要なのかを計算してみましょう。 住みたいエリアや希望の家賃にあった面積の賃貸物件を探すなら、プロに任せてみよう 住むために必要な部屋の面積というのは人によって変わるものです。 エイブルAGENTでは一人一人のライフスタイルに合った広さの部屋をご提案できるので、広さで悩んでいる人はぜひ一度お問合せください。 エイブルAGENTではLINEサービスを行っており、各種ご相談から物件探しまでを受け付けております!.

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一人暮らしの部屋の面積はどれくらい?学生、女性、社会人別におすすめの広さを紹介!

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生き馬の目を抜くような会社で生き残るためには、成果を出すのはもちろんのこと、状況に応じてアシュラマンのように「顔」を切り替えていかなければならない。 笑っていいときと笑ってはいけないときの見極めを誤るだけで出世コースから外れることもある。 社内でオッサンが仏頂面になっているのは、仕事に集中しているのではなく、顔の選択をしくじらないための自己保身に他ならない。 先日、上層部の1人に呼び出された。 「急遽2週間ほど入院するので後は頼む」と言われた。 後は頼む、と言われたが、引き継ぐ業務はなかった。 65才の彼は、社内ナンバー3である。 業務全体を統括する立場にあるが、統括をしている様子はないので、名誉職なのだろう。 3番目の男が入院してから社長出席の部門長クラスの会議がおこなわれた。 いつもなら「はじめてくれ」と切り出す社長が「ちょっと皆に話がある」と話しはじめた。 真剣な表情。 僕は「話を聞いています」という顔を選ぶ。 話は衝撃的なものだった。 社長はその席にいない3番目の男を指して「今、入院している彼だけど会社にいる?どう思う?皆の率直な意見を聞かせてほしい」と言った。 瞬間、「あとは頼む」といった後に「特にないと思うが」と続けた3番目の男の顔が浮かんだ。 旦那、特大のがありましたよ。 きっつ…。 社長が指名した順に意見を述べていく。 役職が上のものから下のものへ。 在籍年数が長いものから短いものへ。 最後は僕だ。 皆、その場を生き残るために、ふさわしい顔を探している哀れなアシュラマンだった。 「彼はまだ会社に必要な人間です」「何の仕事をしているのか正直わかりません」「私の業務とは関係がありません」。 3番目の男に近い者もそうでない者も、皆、社長の真意を探りながら言葉と顔を選んでいた。 僕の番が来た。 「彼がいなくなっても、まわるような体制をつくっていく必要はあると思います」と無難に答えた。 表情に出さないように淡々と。 それぞれの立場に応じた無難な意見を述べることが、僕らが見つけた処世術だった。 社長は「なるほど皆の意見は参考にさせてもらう」と感謝を述べると、「彼には退いてもらおうと考えている」と続けて、僕らの意見を参考にする意志がないことを示した。 露骨な踏み絵だ。 社長は、後釜を外部から連れてくること、3番目には今のポジションを外れてもらうこと、を決定事項として告げた。 理由は業務怠慢と体調不良。 「そのほうが彼もいいだろう」と社長は言った。 笑っていた。 3番目に近い者たちが、こんなときどんな顔をすればいのかわからない、という顔をしていた。 笑えばいい。 笑うしかない。 僕は笑った。 笑えないけれど笑った。 ゴッド・ファーザーに逆らったら消されてしまうのだ。 当惑する僕らをよそに、ボスは「じゃあ会議を始めよう」と何事もなかったのように言った 帰る際、たまたま社長とエレベーターで一緒になった。 社長は「ああいう連中は好きじゃない」と言った。 社長は先代の時代から会社にいる上層部の連中には手を焼いているのは僕も知っていた。 ふと、社長の顔が気になった。 目を閉じていたが険しい顔だった。 この人も僕と同じようにアシュラマンだと僕は思い知らされた。 生き残るために顔を選んでいるのだ。 エレベーターが1Fに到着。 「開」のボタンを押して社長をうながす。 社長はドアから出る際に、「だが、彼らを処分するようなことはしない。 キミも次は曖昧な態度はやめるんだ」と言った。 見抜かれていた。 次があるなら顔を決めなければならない。 さもなければ3番目と同じ運命が待っている。 「お疲れ様でした」といったとき、自分がどんな顔をしたのか思い出せない。 大事なのは、肝心なときに自分の顔を決めることであって、その顔が正しいか間違っているのかは、些末なことなのだ。 彼の人は「悪気はなかった」と言い訳するが、それが問題をややこしいものにしていた。 繰り返されるワルギハナカッターが、周りの怒り爆発のトリガーになっていた。 その様子を見ていて「直接、本人に注意すればいいじゃないか」と助言したら、どーぞどーぞ、そこまで言うなら言ってください、と背中を押されて、僕が注意することになってしまった。 僕はトラブルマンに声をかけて時間をもらい注意した。 もう少し慎重にことにあたったほうがよいのではないか、と。 「注意はしていますが…ミスのない人はいませんよね?」と彼は反論してきた。 「ミスのない人はいない」「じゃ、悪気はないのだからいいじゃないですか」出た!悪気ナッシング。 「悪気の有無の話はやめたほうがいいのではないかな」「なぜですか?」「悪気がないと言われ続けると、惰性で言っているだけなんじゃないかと人は思うんだよ」「本当に悪気はないんです」だーかーらー。 それがトリガーになっているんだっつーの。 僕は言った。 「なかったのは悪気ではなく相手への配慮では。 悪気はなくて当たり前。 もし悪気があってやっていたら君はテロリストじゃないか」トラブルマンは完全に沈黙した。 「なかったのは知性と常識」まで言ったら人工呼吸が必要だったかもしれない。 彼のように悪気がないといえば許されると考えている人は多い。 だが、悪気の有無をはじめ、人の心はわからない。 だから僕らはそれらを結果と行動から推しはかり、推しはかられる。 そもそも、悪気がないといえば免責されるという考えは甘えだと僕は思う。 「とりあえず悪気がないといって謝るのはヤメなさい」と僕は彼にいった。 「確かに部長の言われるとおりですね」彼は納得した様子であった。 数日後、その納得はちがう意味であったことを思い知らされて僕は死んだ。 トラブルマンがまたミスをおかした。 〆切勘違いという致命的なミスだ。 周りから注意されても「謝っても問題は解決しません。 まずはこの問題を解決する方法について皆で話合いましょう」という彼と、フザケンナヨーという雰囲気の周囲とで険悪なムードになっていた。 彼は僕の教えたとおり、「悪気はなかった」とは言ってなかった。 そして僕が教えたとおり謝るのをヤメていた。 僕はトラブルマンを呼び出して「大の大人に何回も言いたくないけれど、もうすこし周りに配慮してよ」と注文を入れた。 「私なりに気をつけているつもりです。 私からもいいですか?」「何に対して?」「部長に対してです」なんとー。 「聞こうじゃないか」余裕を見せる。 「配慮と仰いますが、先日の私に対するテロリスト呼ばわりは言い過ぎではありませんか?少なくとも配慮に欠けていると思います」確かにそうだ。 テロリストはバイオレンス。 意地の悪い言いかたで、配慮に欠けていると指摘されてもしかたない。 「確かにテロリストという喩えはよくなかった。 謝ります」僕は言った。 「私はテロリストのように無差別に民衆をキズつけません。 被害は一部の社員に絞られますからね」そこかよ…。 「それから部長」「何」「部長は悪気はないというなと仰りますが、部長も私を注意するとき必ず《悪気はないけど》と言ってますよ?」嘘… 数日の自分の発言を振り返った。 「もう少し慎重にことにあたったほうがよいのでは。 《誤解のないように言っておくけど悪気はないからね》」「君はテロリストじゃないか。 わかってると思うけど《悪気があって言っているわけじゃないよ》」「大の大人に何回も言いたくないけれど、もうすこし配慮してよ。 《これは悪気があって言っているわけじゃないからね》」「確かにテロリストはよくなかった。 謝ります。 《この発言も悪気はなかったんだ》」…確かに言っていた。 僕らは《悪気はなかった》といえば多少キツいことを言っても許される…そんな症候群を患っている。 「部長も気を付けてくださいね。 これは悪気があって言っているんじゃありませんよ。 心配からです」とトラブルマンは言った。 正論だけど何かムカついた。 それは、彼の言葉に、強い復讐心と、悪意の存在しか感じなかったからだ。 今のオヤジさんが三代目の古い日本料理屋。 新型コロナの影響で売上が激減したため、先月、相談を受け、アドバイスをした。 「今は、何よりも売上です」といってテイクアウトを提案。 オヤジさんは口数の少ない人で「…やるしかないか」と了承。 あまり気乗りしない様子であった。 切羽詰まっていたのでポンポンと話をすすめた。 計画立案。 テイクアウト用容器の手配。 ときおりオヤジさんが何か言いたいことがあるけど言えない様子を見せた。 気になったが、それ以上に時間がなかったので話を進めた。 魚料理が売りの料理店であったけれど、生ものは避けた。 オヤジさんが考えたメニューは高級すぎたので「こだわりはわかりますけれど、今は、こんな時代なので」つって、ランチタイムにあった内容に変えてもらい、価格を抑えた。 「今は」「今は」「今は」といって奮い立たせた。 売上をあげようと必死だった。 お店は看板だけで一見さんが入りにくい雰囲気を醸し出していた。 あるとき、オヤジさんは「ついていけないな…」と時代の流れに置いていかれる的な弱音を吐いた。 言いにくそうにしていたのはこれか。 僕は「テイクアウトで新しいお客さんが獲得できるはずです」つって励ました。 実際はじめてみると、テイクアウトの評判は良く、売上もまずまずだった。 儲けはないが、今月末まで耐えられる見込みは立った。 来月からは仕切り直しで反転攻勢。 そのタイミングの連絡である。 「感謝してるよ」まずオヤジさんは褒めてくれた。 「本番はこれからじゃないですか」と照れ隠しをして僕がこれからのお店の戦略について説明をはじめると、オヤジさんは遮って「実はもうここらで店をヤメようと思ってさ」と言った。 「冗談やめてくださいよ~」と笑うと「冗談じゃないよ」とオヤジさんは真顔で言い、雇っている調理人の就職先を見つけてくれるよう頼みこんできた。 マジだった。 理由がわからない。 あと少しでトンネルを抜けられるのだ。 新たな客だって見込める。 理由を僕が訊くと、オヤジさんは「先代から引き継いだ店の看板の価値を下げてまで店を続けたくない」と教えてくれた。 看板の価値?「意味がわからないのですが」と僕が正直に打ち明けるとオヤジさんは説明してくれた。 オヤジさんの説明はこうだ。 《世間のテイクアウトの相場にあわせて値段を下げたのは、これまでのお客さんをお客さんを裏切ってしまった気がしてならない。 商売人として、一度下げたものを店を再開するからといって、何もなかったような顔であげられない》それがオヤジさんのいう「看板の価値を下げる」だった。 「みんなわかってくれますよ」という僕のありきたりな言葉は、オヤジさんの「値段はさ、ただのものの値段じゃなくてお客さんとの約束なんだよ。 約束は裏切れないよ」という言葉の前では無力だった。 オヤジさんは「ありがたいとは思っているよ」と言ってくれた。 何も言えなかった。 オヤジさんが何か言いにくそうにしていたのはこういうことだった。 「ついていけないな…」は時代に向けてのつぶやきではなかった。 僕のやり方に向けてのものだった。 僕は売上をゲットすることを優先して、相手が何を大事にしているか、見落としていたのだった。 飲食店が乗り切るためにはテイクアウトや通販しかない、という思い込みで突っ走ってしまった。 突っ走るにしても、テイクアウトはランチ価格にするべし、と決めつけずに、もっとオヤジさんの店にあったやり方があったかもしれない。 間違ってはいないとは思う。 正直いってオヤジさんの言ってることのすべてに共感するわけではない。 時代にあわせて変えることは悪ではない。 だが、結果にこだわりすぎて、三代にわたって築き上げてきたものへの配慮が足りなかったのは事実だ。 「みんな少しおかしくなっているよな」オヤジさんは言った。 そのとおりだ。 僕は少しおかしくなっていた。 オヤジさんが「まだ迷っているところ」と言ってくれたのがせめてもの救いだ。 「自粛要請」「アフターコロナ」「新しい生活様式」なんて言葉はカッコよく聞こえるけれども、それらは、仕方ないことだとはいえ、これまで培ってきたものをぶっ壊し、切り捨てていく行為を意味していることは、忘れないようにしたい。 僕に出来ることはオヤジさんが納得する結論を出す手伝いをして、「ありがたいと思っているよ」というオヤジさんの言葉を留保なしのストレートな「ありがたい」に変えることだ。 その結論が店の継続なら、いい。 オヤジさんのために。 そして何より自分の社内的な立場のために。 「店を潰したら支払わなくていいよな」「困ります」。 金を回収できなくなるのは営業として痛恨の極みだが、そんなことより、社長案件なんだよ、このオヤジの店。 きっつー。 どういう意図の発言かわかりかねるが、僕は少なからずキズついてしまった。 日頃から「役職や肩書を気にせずに積極的に意見を言ってほしい」と言ってたくせに、彼のいう管理職が必ずしも僕を指しているわけではないというのに、情けない。 ここ最近、「新型コロナでなくなる仕事」という内容の、面白くない文章をネットでいくつも読んだ。 どれもこれも予想がハズれても責任を取らないお気楽な文章で「こういう文章はお金をもらわないかぎり書くものか」と心に決めた。 他人様の人生を馬鹿にしてるようで許せなかったのだ。 だが、新型コロナ感染拡大にともなってテレワークに移行してみて僕は「管理職はなくなる」と無責任に予想するにいたった。 正確には「管理職の数が少なくなる流れは止められない」である。 平凡な管理職である僕にとって、この悲観的な予想は他人事ではない。 管理職は、ざっくりいえば、スタッフや業務を管理する役職で、上司とほぼ同義である。 なぜ上司と同義なのか。 それは立場が上の人間のほうが管理しやすいからだ。 僕が社会人になった頃の管理職には、一日中デスクに座って(当時はまだPCのないデスクが多かった)、本を読んだり、繋がれた電話に出たり、ときどき説教めいたことを話す以外は、何の仕事をしているのかさっぱりわからない人が多かった。 居酒屋で「昔はバリバリにやっていた」という伝説は聞かされるが、それは「今バリバリやっていない」の証明でしかなかった。 さらに、部下と一緒に動くタイプの管理職は「上司のくせに」と社内でちょっとバカにされているような雰囲気すらあった。 このように、古来、謎の武勇伝と肩書や役職といったもので管理職は守られてきた。 だが近い将来、ごくごく一般的な中小企業で今も生き残っている、こういった管理職は滅びるだろう。 テレワークが導入されて、武勇伝や肩書や役職それからルールギリギリの恫喝で誤魔化してきた真の管理能力が浮き彫りになってしまったからだ。 たとえば僕は営業開発部の部長で、営業という仕事しか知らない人間であるが、各種営業支援ソフトウェア等を使ってしまえば、管理業務に経験や能力はいらない。 経験や能力はかえって邪魔になるかもしれない。 プロジェクトの進捗状況や顧客の管理も余裕。 はっきりいってしまえば管理という仕事だけなら誰でも出来る。 しかも楽に。 部署ごとに管理職を置く必要もないほど楽だろう。 管理するだけの管理職なら今の人数は要らない。 そういう人たちは、そのほとんどは年配だが、今、ハンコを持って迷惑な自己アッピールに必死だ。 一方、ソフトウェアがまだまだ弱いなと思うのは、次の一手、戦略を考え出すことだ。 過去のデータから訪問時期や企画案候補を弾き出してはくれるが、意外性というか、面白みがなく、はっきりいって使えない。 入力している顧客データがデジタルである以上仕方ないのかもしれない。 スタッフのモチベーションを保つための仕組みもいまいちで、まだまだ管理職が上司というペルソナをかぶって喝を入れる必要があると感じている。 同時に、新しい仕事を発明していくクリエーターでなければならない。 つまりスタッフを管理することで評価されていた部分の大半が機械化自動化されてしまうので、それを補填するために、管理職もこれまで以上に創造的な仕事をして、かつ評価を受けなければならなくなる。 管理も、適材適所で前例にとらわれないスピード感のある人材登用といった攻撃的な管理が求められる。 ただ、日報を確認して電話するだけの受け身の管理をしているだけでは部下の人たちに「あの人仕事していないよね」と笑われてしまう。 テレワークを導入しない企業の管理職も遅かれ早かれ同じ状況になるだろう。 ひとことでいえば、部長席に座って管理をしているだけの管理職はもういらない。 告白しよう。 僕は座っているだけの謎上司の滅亡に寂しさを覚えている。 かつてのアホ上司のように何もせずに給料をもらえるような人間になりたいと願い、そういう将来のために頑張ってきた自分がいる。 だが、何の仕事をしているかわからない謎上司の居場所がなくなって、成果を出し続けて仕事が明確な上司が部長席に座る状態は、真面目に働いている多くの人たちにとっては、いい傾向だろう。 このまま加速していってもらいたい。 今勤めている会社に、ハンコ出社している上級管理職がいる。 僕には彼らがハンコに固執するあまり、失っているものに気づいていないように見える。 失っているものが、「仕事は何のためにやるか」「いかに効率的に進めるか」「ウチのような小さな会社が生き残るためには」といった、彼らが会議で口癖のように言っていることなのだから笑える。 僕は、管理職の端くれとして生き残りたい。 そのためには時代遅れのハンコみたいな管理職にならないよう、真面目に働くしかない。 求められるのは、特別な才能ではない。 難しいこともない。 毎日少しずつでもいいから、新しいものを生み出すよう努力すること。 昨日と同じことをするなら昨日より容易に進めるよう改良すること。 それらを心がけながら日々働いていれば、おのずと道はひらけるのではないか、と僕はポジティブに考えている。 礎になるのは熱い気持ちだ。 まずは、暑苦しいくらいの気持ちをもって「管理職はいらない」と言い切った部下Aをつかまえて「その管理職に僕は含まれるのかな?あ~ん?」と詰問することからはじめたい。 こんな管理職は滅びなければならない。 そう頭ではわかってはいるけれども心が…。 たとえば口座番号やマイナンバーは見た瞬間に記憶した。 子供の頃、暗譜したブルグミュラーは今でも弾ける。 1978年の3月に従兄弟が生まれて叔母さんの家に遊びにいったことも昨日のことのように再生出来る。 呼び出せない記憶もある。 どういうわけか呼び出せない記憶はどれも僕にとって意味があるものばかりだ。 そのひとつが1985年5月に父親と僕、二人きりで川沿いに歩いたハイキング。 どこの川に沿って歩いたのかどうしても思い出せない。 それでも僕はときどき11歳のときの、その小さな旅行を思い出す。 なぜなら初めての父と二人きりの遠出だったからだ。 いつも母や弟が邪魔をして父と二人で出かける機会はなかった。 断片的な記憶はある。 家を出てすぐに見かけた、病気で亡くなった近所の女の子のお葬式。 参列する彼女のクラスメイトの嗚咽。 出発地点へ向かう路線バスで話したタミヤのラジコンバギーのこと。 河原で食べたオニギリの塩っけとたくあんを噛む音。 そのとき見たカワセミの鮮やかな緑色のカラダ。 父の前を僕は歩いた。 細いアスファルトの道は、途中で曲がったり、未舗装になったりしながら続いた。 ときおり後ろから声をかけられて、父の指の先にある風景を見た。 水面に突き刺さる折れた大木。 土手のうえの重機。 川沿いの道は川から離れてしまうときがあって、夏草の向こうに川が流れているのか、不安になったこともよく覚えている。 大きな岩に腰を下ろして、水面に石を投げながら「また来よう」「いつかまた」と話した。 僕が思春期に突入し、父もそれから10年もしないうちに亡くなった。 初めての父との小旅行は最後の小旅行となり、唯一の小旅行になってしまった。 だから、ずいぶんと時間が経った今でもときおり思い出してしまうのだ。 そして記憶との邂逅はいつも、僕らはどこの川を歩いたのだろう?というクエスチョンで終わる。 在宅勤務になった。 僕は営業職なので、これほど長い時間、パソコンを前に座る生活は初めてだ。 時間を持て余した僕は、ふと、何年かぶりに1985年の小旅行を思い出し、インターネットで検索して僕らが歩いた川を見つけようと思った。 川は見つからなかった。 記憶からそれらしいワードを拾い上げて、検索して調べてみた。 いくつか候補は見つけたけれどどれも決め手を欠いた。 ヒントを求めて母に小旅行のことをたずねてみた。 母の答えは意外なものだった。 「あんた、お父さんとそんなハイキングに行ったことないわよ」。 僕の記憶違いなのか母の勘違いなのかわからない。 断片的な記憶が明確なので可能性は低いけれど、小旅行自体が僕の見た夢ということもありうる。 もっと記憶を細分化して検索していけば、いつかはあの川に辿り着けるかもしれない。 だが、僕はもうあの川を探そうとは思わない。 「また来よう」という言葉が作り物と確認するのが怖いのではなく、探さなくても、あの川が流れているのを僕が知っているからだ。 検索しても出てこない川。 存在の不確かな小さな旅。 誰ともシェアは出来ないが、どちらも確かに僕の中にある。 それで十分じゃないか。 母の言葉がトリガーとなってそう考えるようになった。 80年代までの一般個人の活動はデジタルで記録されていない。 もし記録されているなら、後日、改めてデジタル化されたものだろう。 90年代の頭に亡くなった父は、デジタルの世界には存在しない。 実際、ネットで父の名を検索すると出てくるのは、いくつかの論文だけだ。 今は、データ化されていないもの、検索できないものに価値がない世の中になっている。 ネットに上がっていないものは存在しないのと同義になりつつある。 でも、僕は思うのだ。 検索できない、デジタル化されていない、誰とも共有不可能で、淡く儚いアンタッチャブルなものをどれだけ持っているか、それが充実した良い人生を送れているかのひとつの指標になりうるのではないか、と。 僕は、悪あがきで、もう一度あの川を調べてみようとしてみたけれど、それ以上の検索ワードは思い浮かばなかった。 「どうだっていいじゃないか。 そんなことは」と、記憶の向こうから、あの川のせせらぎをバックミュージックに「また来よう」と同じ声が教えてくれている、そんな気がした。

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どくじょって何? どくじょの由来と8つの特徴。どくじょと対になる単語

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スキルス胃がんは、胃がんの約10%を占める。 進行が速く、早期発見も治癒も難しい。 弁理士の轟哲也さんもそうだった。 2013年12月に発覚。 その後、NPO法人「希望の会」(現在は認定NPO法人)を立ち上げて理事長に就任し、2016年8月に他界するまで、妻の浩美さんとともに、スキルス胃がんの患者のための活動を続けた。 浩美さんは今も患者や家族を支え、正しい情報の周知に力を入れている。 (文:中村智志) もしかしたらスキルス胃がん 1冊の冊子がある。 『もしかしたらスキルス胃がん -治療開始前に知りたかったこと-』 NPO法人「希望の会」が2016年1月に作成して、。 42ページ。 専門用語の解説も交えながら書かれていて、わかりやすい。 「治療を受ける人自身が主役」「主治医に、どんなことでも感じていることを伝えましょう」といった診察時の心がまえから、「体重が急に減る」「胃が動かない」などスキルス胃がんを疑うべきサイン、スキルス胃がんの特徴、転移の現れ方、治療方法、緩和ケア、臨床試験の参加方法、セカンドオピニオンの取り方、ネットや書籍の情報の探し方(「がんが消えた」などの表現に惑わされない)などまで、幅広い。 医療に関する部分は、「希望の会」理事長だった轟哲也さんが執筆し、それ以外の部分は妻の浩美さんが担当した。 浩美さんはこう語る。 「胃炎と診断されてピロリ菌を除去したのに、胃の違和感が残る。 内視鏡検査をしても何も映らない。 スキルス胃がんは胃の表面に出てこないで、胃壁の内部を浸潤するので、医師でも気付きにくい。 経過観察をしているうちに、ようやく見つかったときには、ステージ4、というケースが多いのです」 哲也さんも、その一人であった。 最初の診断は胃炎だった 2013年1月のある朝、哲也さんは朝食を取らなかった。 代わりに、唐突に切り出した。 「今日、実は胃カメラの検査を受けに行くんだ」 おどろく浩美さんに、事情を説明した。 2012年11月の区の検診で「要再検査」となったこと。 「画像診断に自信がある。 慶応義塾大学病院から独立した」というクリニックで検査をすること。 満腹になる量が以前より減ってきているという自覚症状があること。 哲也さんは健康に気を配っていた。 食事は野菜中心で、酒もたばこもやらない。 ジョギングやウェートトレーニングにも精を出す。 父方の家系に胃がんの人が多く、若いときから、いつか自分も胃がんになると考えていた。 そのため、毎年、区の検診を受けていた。 浩美さんは勤務先の学校法人へ、哲也さんはクリニックへ出かけた。 哲也さんは弁理士で、自宅が職場であった。 帰ってきた浩美さんに、ホッとしたように言った。 「がんではなかったよ。 胃炎だと言われた」 ただ、胃の中に、胃がんの原因にもなるピロリ菌があったので、除去することになった。 除去には数カ月を要した。 哲也さんはその間にも、「胃がどんどん悪くなる」と感じていた。 食後にみぞおちのあたりが痛む。 少し食べると、のどが、蓋が閉まるようなつっかえる感じがする。 そうした症状をクリニックの医師にも伝えても、 「ピロリ菌の除去をすると、逆流性食道炎のような症状になることがあります」 という答えが返ってきた。 地元の行きつけの胃腸クリニックにも相談したが、検査はせずに「胃炎ですよ」と言われた。 1年後、スキルス胃がんとわかる 2015年5月3日、浩美さんの誕生日にバイクにまたがる哲也さん。 (轟浩美さん提供) やがて1年が過ぎて、2013年11月、再び区の検診を受けた。 バリウムを飲んだ瞬間、哲也さんは冷や汗が吹き出し、胃が破裂しそうになった。 「これは、まずい」と直感した。 2週間ほど経ったころ、家の電話が鳴った。 都立広尾病院の医師からであった。 「胃のX線画像に病変が見られます。 一刻も早く精密検査を受けたほうがいい」 4日後に広尾病院で胃の内視鏡、CTスキャン、病理検査などを受けた。 結果を聞きに行く日は、長男の健太さんの誕生日でもあった。 その朝、哲也さんが浩美さんに言った。 「今日は胃がんだって言われてくるよ」 浩美さんは「胃がんは切れば治る時代だ」と考えていて、いつも通りに出勤した。 しかし、哲也さんからの連絡は違った。 「やっぱりがんだった。 それも、スキルス胃がん。 治療法がない。 『命は数か月ぐらいと考えてください』って言われたから」 哲也さんは理科系で、自分でよく調べるタイプだ。 診断を受ける前から病名を推測していた。 頭が真っ白になるのではなく、「ようやく正しい治療が受けられる」と受け止めた。 主治医からは、「腹膜播種(腹膜への転移。 がん細胞が種をまいたように広がる)があれば、まず抗がん剤で転移をなくし、その後、胃の全摘手術を行う」という治療方針が示された。 後で知ったことだが、腫瘍マーカー(CA19-9)は750と、正常範囲(0~37. 0)を大幅に超えていた。 このときの浩美さんには、スキルス胃がんの知識はなかった。 抗がん剤とにんじんジュース 哲也さんは告知の1週間後に入院した。 腹腔鏡手術で調べると、腹膜播種がみられた。 ステージ4。 がん研有明病院でセカンドオピニオンを受けたが、広尾病院の治療方針で問題がない、という結論だった。 抗がん剤治療が始まった。 点滴のドセタキセル、飲み薬のTS-1の2種類。 治療を始めて数日後、食べ物が抵抗なく胃に入っていくようになった。 スキルス胃がんのスキルスは「硬い」という意味。 進行すると胃が陶器のようになるという。 哲也さんは、胃が柔らかくなったのを実感した。 希望が見えた。 治療を受けながら、哲也さんは身辺整理にも力を入れたという。 一方の浩美さんは、 「この人を助けるには、私も何かしなければいけない。 私が仕事をしていたから気付かなかったのか。 作った料理が悪かったのか」 という客観的に見れば抱く必要のない懺悔の気持ちもあって、インターネットであれこれと検索した。 そして、いわゆる民間療法に引き込まれた。 フコイダン、アガリスクなどのサプリメントを買い、高濃度ビタミンC点滴を受けられるクリニックに行き、にんじんジュースを低速のジューサーで一生懸命につくった。 哲也さんは、民間療法で治るとは考えていなかった。 しかし、浩美さんの気持ちを酌んで、サプリメントを服用し、にんじんジュースを飲んだ。 ブログをきっかけに「希望の会」を立ち上げる 2015年8月、東京・秋葉原のアキバキャンサーフォーラム2015に「希望の会」としてブースを出した。 (轟浩美さん提供) 2014年1月、浩美さんは、実家の火事で母を亡くした。 哲也さんのがんを乗り越えようという気持ちになりつつあった矢先のことだ。 浩美さんは、実父もその17年前に大動脈瘤で亡くしている。 突然の別れのつらさ。 さらに、職場でも孤立して仕事を失う。 一方の哲也さんは、臨床試験のことも調べていた。 2014年の春、「腹腔内投与」という治療法を知る。 お腹にポートを埋め込んで直接抗がん剤を入れることで、腹膜播種を消すという方法だ。 腹膜播種が消えれば、胃を全摘できる。 しかし、浩美さんが、この臨床試験を行っている東大病院に連絡を取ると、「抗がん剤を一度も受けたことがない」という条件が付いていた。 広尾病院では実施していない。 「かかる病院によって治療の選択肢が違う」 浩美さんは不公平感を突き付けられた気がした。 スキルス胃がんは、情報が少ない。 哲也さんは2014年4月、情報を集めたい気持ちもあって、ブログを始めた。 タイトルは「スキルス性胃がんに勝つ ~同じ病と闘っている人達の参考になれば、と思って、日々の闘病生活を綴ります~」。 浩美さんには黙っていた。 だんだん、ブログに人が集まり始めた。 ブログ上で呼びかけて、2014年10月、患者会「希望の会」を結成した。 その時点でも、浩美さんは何も知らなかった。 11月、浩美さんは突然、こう誘われた。 「同じ病気の人と会うから大阪に行く。 一緒に行く?」 11月23日、夫婦で日帰りで大阪へ向かった。 哲也さんはブログにこう綴った。 《お互いの経験や、知りえた情報などを出し合い、情報を共有することができました。 今まではネット上の仮想癌友でしたが、今日からはリアルの癌友です》(抜粋) 翌日には、東京でもオフ会を開いた。 哲也さんのブログの筆致も前向きだ。 《スキルス性胃ガンの話ができる、スキルス性胃ガンだけど元気な人達が目の前にいる、それだけでも〔希望の会〕の存在意義があると思っています》(抜粋) 希望の会は、2015年3月に、NPO法人化された。 理事長は哲也さん、副理事長は浩美さん。 浩美さんの友人のデザイナーも加わるなど広がりも見せていた。 国立がん研究センター理事長との対談 2015年5月に「全国がん患者団体連合会」が立ち上がると、浩美さんが連絡を取って参加した。 こうしたことから、専門医をはじめ各方面への人脈も広がった。 7月には、国立がん研究センター(国がん)の理事長の堀田知光さんと対談した。 哲也さんは、希望の会で企画しているスキルス胃がんの冊子の内容チェックなどの協力を依頼した。 堀田先生は「国がんと一緒に創りましょう。 その内容を、国がんが展開しているがん情報のサイトでも見られるようにしましょう」と賛同してくれたという。 浩美さんは、金沢大学や近畿大学などの先生にも内容チェックを依頼した。 ときに、講演会の出待ちまでして頼んだ。 だれもが快諾してくれた。 哲也さんが執筆した医療関連の部分は、医師たちの赤字チェックもほとんど入らなかった。 2016年1月下旬、冊子「もしかしたらスキルス胃がん」が完成した。 哲也さんと浩美さんは、堀田先生はじめお世話になった先生たちに手渡した。 最期までスキルス胃がんの希望のために 2016年4月、インターネット生放送番組「がんノート」に出演。 左はNPO法人「がんノート」の岸田徹さん。 (轟浩美さん提供) だが、そのころから、体調は芳しくなくなってきた。 ほとんど食べられず、食べても吐いてしまう。 呼吸困難になったり、転移した骨が痛んだりする。 バイクも手放した。 介護ベッドも入れた。 愛犬の柴犬、豆太郎も16歳で天国へ行った。 哲也さんは2015年には必死に探して金沢市で「腹腔内投与」の臨床試験も受けたが、骨転移が判明して、胃の全摘手術には入れなかった。 東京に戻り、イリノテカン、保険適用されたばかりの分子標的薬サイラムザといった薬で治療を続けていた。 そして、千葉県柏市の国立がん研究センター東病院で、免疫チェックポイント阻害剤の「日本人で初めて」という臨床試験に賭けた。 スキルス胃がんの患者へ臨床試験の道を開きたいという思いもあった。 3月半ばに始めた臨床試験は、5月末に中止。 その後はサイラムザとパクリタキセルという抗がん剤の併用療法を再開した。 8月8日の早朝。 哲也さんは旅立った。 自ら終末期鎮静を決断し、集まった家族に別れを告げた。 最期の言葉は母への「産んでくれてありがとう。 あなたの子どもで幸せでした」だったという。 その前日には、浩美さんに「出会えてよかった」と感謝を伝えていた。 遺体は、哲也さんと浩美さんの遺志で剖検された。 2016年7月、聖路加国際病院の市民公開講座「緩和ケアのことをちゃんと知ろう」で。 《早朝、旅立ちました。 最期までスキルス胃がんの希望のために生きました。 私は彼の意志を継いでいくつもりです。 綺麗な朝焼けでした》(抜粋) 知ることは力になる 哲也さんと浩美さんの歩みから浮かんでくるのは、情報の重要性だ。 簡単に正しい情報へアクセスできること。 治療法や臨床試験などのすべての情報が素早く平等に提供されること。 スキルス胃がんそのものの知識が広まること。 浩美さんはこう語る。 「結果が悪ければ、自分が選ばなかった道のほうがよかったんじゃないかと思ってしまうものです。 だからこそ、医師は最初に病気のことをわかりやすく説明して、正しい情報を知る機会を平等に与えてほしい」 ネットだけでなく、一般紙にも「奇跡の治療法」を謳った書籍やイベントの広告が載る。 現実をしっかり受け止めないと、民間療法やサプリメントに走ったり、治療をしないという選択をしてしまったりするかもしれない。 「知ることは力になる。 『希望の会』ではいつもそう言っています。 知る機会を増やすことが、患者会の役目だと思います。 亡くなった人は戻らないけれど、制度や医療は変えられる。 そこをやっていきたい」 イクメンだが食事は作らなかった 友貴さんの成人式の記念写真。 右奥は健太さん、右手前は哲也さんの母の轟ミチ子さん。 このころ、最初のバリウム検査が引っかかった。 (轟浩美さん提供) 浩美さんは都立青山高校からお茶の水女子大学家政学部へ入り、幼稚園の先生を目指した。 哲也さんは都立戸山高校から早稲田大学理工学部に入った。 2人は、早稲田大学の準体育会のようなスキーサークルで知り合った。 浩美さんが早稲田のサークルに入った理由のひとつは、野球の早慶戦の後に新宿で盛り上がるところに憧れていたからだ。 ともにスキーは初心者で、哲也さんは1年先輩だった。 「いかにも理系で、どんなことでも客観視している。 ぶれない。 これ、と決めたら絶対に動かない人でした。 論理的なので、議論したら必ず私が負けました」 今でも、判断に迷ったときに、哲也さんならどうするかなと考えるという。 長男の健太さん(28)もこう話す。 「テレビひとつ買うのでも、すべてのカタログを比較検討しました。 衝動買いなんて絶対にない。 抽象的なことも好まなかったですね」 哲也さんは、いわゆるイクメンだったが、食事だけは作らなかった。 「おふくろの味」を大切にしたい、というポリシーだったと浩美さんはみる。 健太さんはキユーピーを退職し、「Medical Compass」という会社で働いている。 哲也さんともつながりがあり、厚生労働省で医療改革にも携わっていた医師の宮田俊男さんが2016年12月に立ち上げた会社だ。 症状を入力して質問に答えると市販薬を紹介してくれる「健こんぱす」などのアプリを開発している。 長女の友貴さんはフリーライターとして韓国に拠点を置く。 いつまで悲しんでいてもいい 哲也さんの旅立ちから1年半近く。 浩美さんには、 「静かな遺族でいたかった」 という思いもある。 テレビに出たりしたことで、たとえばリレー・フォー・ライフなどのイベント会場で静かに追悼したいときにも声をかけられたりする。 遺族の代表として発言を求められる機会も少なくない。 「今のほうがつらいですね。 立ち止まる時間ができて、本当にいないんだな、と感じます。 家族は、忘れようとしなくていい。 若い人が配偶者を亡くしたりすると、『そろそろいい人見つけたら』なんて善意で勧められたりしますが、かえって心を閉ざしてしまう。 後になるほど悲しくなることもあるんです」 2018年1月末のブログではこう書いた。

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