野村 監督。 野村克也

ボヤくだけじゃない!かなり深い野村監督(野村克也)の名言32選

野村 監督

スポンサーリンク 野村監督が提唱したID野球の意味と内容 『ID野球』、ある程度の年代の方には聞き覚えのある言葉かと思います。 若い方や、そもそも野球をあまり知らない方にとっては、「ID野球ナニソレ?」でしょう。 ID野球の意味や内容について説明していきますね。 ID野球とはデータ重視の野球のこと ID野球とは『Important data』野球、つまり、『経験』や『勘』よりも『データ』が重要であるという意味を込めた言葉です。 当時、ヤクルトスワローズの監督を務めていた野村監督ですが、試合前には選手たちを集めてのミーティング時にデータ解析などを取り入れていたという話がありましたね。 落合博満さんや清原和博さんが現役プロ野球選手だった頃の話です。 結構古い話ですが・・・ ID野球ではデータを駆使して考える野球をする ID野球は『考える野球』。 野村監督の野球に対する考え方は『野球は頭のスポーツ』、『頭を使えば勝てる』というものでした。 今では世の中の物事にデータ解析を取り入れるのはごく当たり前の話ですが、当時の野球界ではまだまだ経験や勘だけに頼る野球も行われていたワケです。 根性論の延長だったのかもしれません。 野村監督は『根性』とかが大嫌い、自身の経験などから『予測』、『準備』が大切であると知っていたのですね。 ID野球の戦略と戦術 野村監督は『データが重要』と強く主張して、細かなデータ分析に基づく戦略を立て、それにより1990年代、ヤクルトスワローズの野村克也監督の『ID野球黄金時代』が訪れる事になります。 野村監督が提唱したID野球の戦略や戦術はどのようなものだったのでしょうか。 先を読む力を身につける弱者のための野球戦略 野村監督は現役時代、苦手な投球を打つために『ヤマを張る』という事をしていたようです。 相手バッテリーを見て、「次はこういう球種のこんなコースが来るだろう」という予想を立ててヒットを量産し、苦手な投球の克服をしていました。 ID野球という言葉が生まれる前から、野村監督はデータを基にした野球をプレーしていた事になりますね。 苦手なものは『先を読む』事で克服できる、つまり先を読むことができれば『弱者でも勝てる』というワケです。 これは野球界だけでなくどこの世界にも通じる考え方、野村監督は改めてすごい人だったのだと感じます。 データを駆使して確実な手段を選んでいくという戦術 先を読むためには『勘』だけを頼りにしていては意味がありませんから、相手選手の『データ』が必要になります。 相手のデータ、つまり普段のプレイ動向やクセから次の行動を予測する。 簡単な例えで言うと、バッターボックスに入った時に「よし、どんな球でもどんと来い!」という考え方はダメで、「このピッチャーはストレートが得意だ、しかし2ストライクの時にはアウトコース低めのカーブで来ることが多いな、だから今回もその可能性は高い」と予測する事によって、ヒットのための『より確実な手段』を選ぶ、という事です。 ID野球の成果 そしていよいよ、データを駆使した野球は実を結ぶことになります。 1年目には種をまき、2年目には水をやり、3年目には花を咲かせましょう 出典:1990年野村克也監督就任時の言葉 野村監督のその言葉通り、ID野球を駆使したヤクルトスワローズは監督就任3年目の1992年、14年ぶりとなるリーグ優勝を果たします。 そして翌年の1993年、ついに日本シリーズを制し、日本一に輝いたのです。 当時、西武ライオンズのファンだった私は非常に悔しい思いをしましたが、こうやって振り返って考えてみると『すごい時代』を見たのだなぁと感慨深いものがあります。 1990年~1998年の野村監督就任中には4度のリーグ優勝、3度の日本一とまさに 『ID野球黄金時代』とするに相応しいものでした。 ID野球の関係者 野村監督がID野球を提唱するに至ったその陰には『ドン・リー・ブラッシンゲームさん』、また野村監督時代にヤクルトスワローズの捕手を務めていた元ヤクルトスワローズ監督、現野球解説者の『古田敦也さん』はデータを駆使して綿密な計算をしていたとされています。 ドン・リー・ブラッシンゲーム 日本のプロ野球在籍時の登録名は『ブレイザー』。 『ブラッシンゲーム』という名前が長すぎてスコアボードに書ききれなかったことから、愛称の『ブレイザー』がそのまま登録名になったとか。 野村克也さんはブレイザーさんの『シンキング・ベースボール』の考え方を基にして『ID野球』を生み出したとされていますし、野村さんご本人もブレイザーさんに対しては、考える野球を教えてくれた恩人だと語っています。 もともと試合展開や相手選手の心理を読む能力に長けていたという野村さん、『シンキング・ベースボール』には直感的に『これだ!』と感じるものがあったのかもしれませんね。 古田敦也 ヤクルトスワローズの元監督、現野球解説者である古田敦也さんは、現役時代、野村監督の下でヤクルトスワローズの捕手を務めました。 当時の他球団の捕手に比べて「まじめそう、頭良さそう・・・」という感じがしていました。 メガネのせいですかね? その古田敦也さんは当時から綿密な計算を基にした作戦を組み立てる方法で試合に臨んでいた事から 『ID野球の申し子』とされ、また当時の恩師・野村監督の 『頭を使えば勝てる』の言葉は今でも古田さんに多くの影響を与えているようです。 スポンサーリンク 愛すべきノムさんの名言 野村沙知代夫人が一時テレビを賑わしていた頃、確かにこの人の旦那さんだからちょっと不思議な人なのかもしれない・・・と思っていた事もありました。 でもそれは間違い。 人間観察、心理を読むことに長けていた野村克也さんこと『ノムさん』は非常に人間味の溢れる、人生のお手本にしたいような方だったのです。 大切にしていたのは 『人間教育』。 人として何が大切なのか、それを伝えてくれていた方でした。 今思えば、沙知代夫人の一件で私たちがテレビを通して見ていたのは、面白おかしく切り取られた夫人の一面だったのかもしれません。 だって、あの野村監督の奥さんなんです。 野村監督が選んだ人だったのですから、ただのワガママやりたい放題夫人ではないはずですよね・・・ 野村監督が本当に好きでたくさんの本を読ませていただきました。 近藤監督もよく言われていた 勝ちに不思議な勝ちあり 負けに不思議な負けなし という言葉はこれからも忘れません。 ありがとうございました。 — 佐々木 守 New0717mamo 好きな野村監督の名言 ・縁を大切にすると、人生はより豊かになる ・配球も人生も、大事なのは「緩急」 ・何かをしたい者は手段を見つけ、何もしたくない者は言い訳を見つける ・やけくそはギブアップ、開き直りはチャレンジ ・変わる勇気を持て 御冥福をお祈り致します。 残してくれた言葉をよく噛みしめながら、私自身も自分の考え方や行動をよく考えていかなければと改めて感じます。 まとめ まさに、巨星堕つ。 プロ野球を支え、変えた偉人がまた逝ってしまいました。 悲しみのツイートも溢れています、それと同時に『ありがとう』という思いを伝えている人の多いこと。 今頃沙知代夫人のいる場所にたどりついて、「よお、待たせたね」なんてやっているのでしょうか。 いや、きっと再会を喜び合っている事でしょう。 そして今後も野村監督提唱のID野球は受け継がれていきます。 心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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野村孝

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野村克也の生涯 1935年6月29日、現在の京都府京丹後市に生まれる。 家は貧しく、貧乏な生活から脱却するために将来は歌手になろうとコーラス部に所属したり、俳優を目指して映画館通いなどをしていたが、中学2年生のときに野球部に入部して注目されるようになる。 中学卒業後は母から働くように言われるが、兄が大学受験を断念することで高校に進学。 高校野球部は大変弱く、野村克也も無名選手だった。 しかし野球部顧問がプロ球団の監督に推薦状を送り、1954年、南海にテスト生として入団。 一年目は9試合に出場し、11打数無安打。 戦力外通告を受けるが正捕手らの事故等により捕手不足となり残留。 3年目の1956年、一軍に抜擢され正捕手に定着。 打撃不振に陥った際、『バッティングの科学』という本の「投手は球種によりモーション時にクセを見せる」という言葉に出会う。 その後、投手のクセを研究し、打撃力が格段に向上。 攻略できなかった稲尾和久投手には、16ミリカメラでフォームを撮影し研究。 ID野球の基礎となる。 1957年に本塁打王のタイトルを獲得。 以降、毎年のようにタイトルを獲得し、1965年には戦後初の三冠王に輝く。 しかし同時期にセ・リーグで活躍していた巨人のやに比べて世間からの注目は少なく、後に「花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある」とコメントし、「月見草」が野村の代名詞となった。 1968年からコーチ兼任となる。 1970年には監督と選手を兼任するプレーイングマネージャーとして4番打者、捕手、監督の三つの重責をひとりで担うことになる。 監督兼任となってからも打棒は健在で、1970年シーズンは42本塁打、通算2000本安打を達成。 1972年には打点王を獲得。 監督としても1973年にリーグ優勝を果たす。 1978年にロッテへ選手として移籍。 1979年から西武へ。 1980年、前人未到の3,000試合出場を達成。 同年45歳にて引退する。 2020年2月11日、野村克也は虚血性心不全により死去、84年の生涯を閉じた。

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野村克也

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「監督と選手」という立場であり、すでに還暦だった野村とまだ20代だった高津。 この頃、両者の距離ははるかに遠いものだった。 しかしその後高津は、日本からアメリカに渡り、さらに韓国、台湾、そして日本の独立リーグでもプレーをした。 通算286セーブを記録し、名球会メンバーにもなった。 すでに50代となり監督に就任した今なら、また新たな関係性を築けるのではないか? 今までにない気づきや発見があるのではないか? 高津の言葉の裏には、そんな無念さが透けて見えるようだった。 監督就任のあいさつで……。 言葉の人であった野村について、彼はこんなことを口にした。 「褒められたことはほとんどなかったですけど、いつもいいタイミングで野村監督は言葉をかけてくれました。 選手たちに自ら考えさせるような言葉をくれました。 でも、皮肉の方が強く印象に残っていますけどね。 「監督は絶対に口にはしないけど、僕がヤクルトの監督に就任したことは絶対に嬉しかったはずですよ。 だからこそ、野村監督に僕の野球を見てもらいたかった。 いろいろアドバイスをもらいたかった……」 無念そうに高津は言った。 おそらく、野村もまた愛弟子がどんなチームを作り、どのような野球を展開するのか、自らの目でしっかりと見届けたかったに違いない。

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